大八木淳史のラグビーレジェンド対談第5弾の2回「なぜ大野均は東芝に入ったのか?」
2025年4月18日(金)18時0分 スポーツニッポン
元ラグビー日本代表の大八木淳史氏(63)がゲストを招いてトークする「レジェンド対談」。第5弾は日本代表歴代最多の98キャップを持つ、東芝ブレイブルーパス東京アンバサダーの大野均さん(46)です。第2回は「なぜ大野均は東芝に入ったのか?」(対談映像はYouTube「スポニチチャンネル」で配信中です)
日大工学部入学後にラグビーを始め、日本代表最多キャップを誇るレジェンドになった大野氏。小中高校時代は球児だった。
「野球はベンチを守っていました」
意外にもレギュラーではなかった。
ポジションは外野が中心で、高校3年の時には捕手だった。
打撃については「真っすぐは(バットに)当たれば飛ぶのですが、変化球に対応できなかった」という。
そんな大野氏に大八木氏は「野球やっているやつは賢くて、センスあるわ。頭が悪かったら野球はできない」と断言した。
過去にテレビ番組で共演した元プロ野球選手でもある長嶋一茂氏が、初めてラグビーを体験したにもかかわらず、説明したプレーをすぐに理解して実践したことを例にあげた。
「子どもの中で、身体能力が高くセンスのある子は、当時は野球をやっていた」と持論を話した。
そんな大野氏がラグビーと出会った日大工学部(機械工学科)。大学でも野球を続けるつもりだったが、キャンパス内を歩いていたときに、ラグビー部の屈強な先輩たちに、いきなり両脇をかかえられ無理やりラグビー部の部室に連れていかれ入部が決まったという。
それから3年、大学4年の春に福島県の国体チームに選ばれたことが、大きな転機となった。
国体チームのコーチが筑波大出身で、当時、東芝府中(現BL東京)のコーチだった元日本代表の薫田真広氏と同級生だった。その縁で東芝府中の練習会に参加することになった。
しかし、そのトライアウトは想像以上に厳しく、激しい練習中に右肩の肩鎖関節を脱臼した。
「でも福島から練習に呼んでもらって、肩が痛いから練習抜けますと言ったら格好悪いかなと思って、肩が痛いけど最後まで練習に食らいついていった、その根性だけを認めてもらった」と入団が決まった。当時から“鉄人”だった。
その東芝府中。大八木氏にとっては因縁の相手だった。1988年度の全国社会人大会では1回戦で敗れたが、翌年の決勝戦では勝利し神戸製鋼の7連覇が始まった。
「懐かしいなぁ。東芝とは色々あるなぁ。三洋(現パナソニック)ともあったけど、東芝と神戸製鋼も色々なあるな。熱い戦いが。東芝、三洋は強かった」と当時の激闘を思い出していた。
◇大野 均(おおの・ひとし)1978年(昭和53)5月6日、福島県郡山市生まれの46歳。福島県立清陵情報高時代は野球部。日大工学部からラグビーを始め、東芝府中では、入社2年目の2002年の東日本社会人リーグから公式戦出場。トップリーグが始まった2003年シーズン後半からレギュラーに定着。現役時代のポジションはロック。ワールドカップは07年、11年、15年に出場。15年・南アフリカ戦の勝利に貢献。日本代表キャップは史上最多の98。現役時代は身長1メートル92、体重105キロ。
◇大八木 淳史(おおやぎ・あつし)1961年(昭36)8月15日、京都市生まれの63歳。伏見工からラグビーを始め、同志社大—神戸製鋼。同志社大時代は大学選手権3連覇、神戸製鋼時代は日本選手権7連覇に貢献。現役時代のポジションはロック。W杯は87年、91年に出場。91年・ジンバブエ戦でのW杯初勝利に貢献。日本代表キャップ30。現役時代は身長1メートル90、112キロ。