国民民主・榛葉賀津也幹事長、“過激な仕掛人”新間寿さん通夜で誓う「今の永田町も面白いことやりたい…必ず日本を変えてみせる」

2025年4月29日(火)21時2分 スポーツ報知

新間寿さんの通夜に参列し佐山サトル(右)にあいさつする榛葉幹事長

 今月21日に90歳で亡くなった“過激な仕掛人”とうたわれ、アントニオ猪木さんと共に昭和の新日本プロレスで黄金時代を築いた元新日本プロレス専務・新間寿さんの通夜が29日、新宿区の感通寺でしめやかに営まれた。

 通夜には、初代タイガーマスク佐山サトル藤波辰爾前田日明、新日本プロレスの菅林直樹会長、永田裕志らプロレス関係者、国民民主党の榛葉賀津也幹事長、自民党の和田政宗参院議員ら380名が参列した。

 新間さんが会長を務めたリアルジャパンプロレス(現ストロングスタイルプロレス)でかつてコミッショナーを務めた榛葉氏は新間さんから「プロレスの歴史、プロレスの流儀、生き様を教えていただいて、まさに今はない昭和のプロレスをずっと大事にされる、ストロングスタイルのプロレス、猪木イズムを継承して過激な仕掛人と言われましたが誰よりもプロレスを愛し、国を愛しプロレスを通じ日本の大切さを教えていただいたかけがえのない方」としのんだ。

 2022年10月1日に新間さんがマネジャーを務めたアントニオ猪木さん(享年77)が亡くなり、新間さんが旅立ち「大きな昭和のプロレスが一区切りついたのかなと思いました」と思いをはせ「つくづく昭和のプロレスは良かったね。本当に我々日本人の心を揺さぶり、万感胸に迫りました」とかみしめた。

 さらに新間さんが仕掛けた昭和の新日本プロレスを「今の日本のプロレスじゃなくて今の日本を作ったと言ってもいいんじゃないですか」と絶賛し「立憲の野田(佳彦)さんもそうだし、自民党の萩生田(光一)さんもそうだけど、国民民主の榛葉賀津也…そういった国会の中のプロレスファンに誰にも負けない」と表し「日本人を作ったね」と繰り返し賛辞を送った。

 そして昭和の新日本プロレスのスター選手の名前をあげ「今の永田町もそれぐらい面白いことやりたいね。みんながドキドキ、ハラハラ、ワクワクするように毎週金曜日の会見が楽しみだっていわれるように我々も頑張りたいなと思います」と決意した。7月には参議院選挙が控えるが、新間さんの霊前に「必ず日本を変えてみせるとお誓いしたので、肝に銘じてストロングスタイルで頑張りたいと思います」と政界再編を仕掛けることを明かした。

 新間さんは、中大を卒業後に化粧品会社に就職したが、1966年10月に親交があった豊登さんが旗揚げした東京プロレスに入社しフロントとしてプロレス界に飛び込んだ。同団体はわずか3か月で崩壊。猪木さんと訴訟合戦となるなど確執が生まれたが、和解し1972年秋には、猪木さんが同年3月に旗揚げしたばかりの新日本プロレスに入社した。

 以来、猪木さんのマネジャーとして当時は「禁断」と呼ばれたストロング小林、大木金太郎との大物日本人同士の対決、ムハマド・アリとの「格闘技世界一決定戦」を頂点とする異種格闘技戦、全世界のベルトを統一する「IWGP」などロマンあふれる企画で猪木さんをプロデュースした。

 さらに1978年1月には、ニューヨークのMSGで藤波辰爾(当時は辰巳)がWWWFジュニアヘビー級王座を奪取し、ジュニアという新しい分野を開拓。WWF(現在のWWE)のビンス・マクマホン代表と公私にわたる親交を深め、新日本プロレスとニューヨークマットの距離を深め、1981年4月には、佐山サトルが変身したタイガーマスクをプロデュースし日本中に空前のブームを起こした。

 83年秋に新日本プロレスを退社すると84年4月にUWFを旗揚げ、89年夏には参院選に出馬した猪木さんが結成した「スポーツ平和党」の幹事長として政治家「アントニオ猪木」を支えた。その後、猪木さんとは決別したが、佐山が旗揚げした「リアルジャパンプロレス」(現ストロングスタイルプロレス)会長を務め、生涯をプロレスにささげた。多大な功績は2019年に世界最大のプロレス団体「WWE」が殿堂入りでたたえた。日本のプロレス界でフロントでの殿堂入りは新間さんが唯一だ。

 新間さんは、昨年から体調を崩し今年3月24日には新型コロナウイルスに感染し都内の病院に入院。コロナは回復したが肺炎を発症し闘病を続けていた。3月28日には90歳を迎え、今月18日に退院し自宅で激動の生涯に幕を下ろした。

 告別式は、30日午前10時から感通寺で営まれる。

スポーツ報知

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