大八木淳史のラグビーレジェンド対談第5弾の4回「ロックへの思い チームの士気にかかわる」
2025年5月2日(金)18時0分 スポーツニッポン
元ラグビー日本代表の大八木淳史氏(63)がゲストを招いてトークする「レジェンド対談」。第5弾は日本代表歴代最多の98キャップを持つ、東芝ブレイブルーパス東京アンバサダーの大野均さん(46)です。第4回は「ロックへの思い チームの士気にかかわる」(対談映像はYouTube「スポニチチャンネル」で配信中です)
日本代表LOとして活躍してきた2人にとって、そのポジションへのこだわりは何だったのか。
大野氏「チームで1番、体の大きな選手がやるポジション。その選手が試合中に簡単に痛がっている姿、弱っている姿を見せるとチームの士気にかかわってくる。試合中は痛くても痛くないフリをしてプレーしていた」と現役時代を振り返った。
大八木氏から「無理したときもあるんやろ」と質問されると、「靱帯(じんたい)を損傷していたときもあった」と、常に満身創痍(そうい)状態だった。
逆に大野氏から質問された大八木氏は「ぼくらの時代は、1番から5番まではタイトフォワード(スクラムを組む前の5人の選手)。うしろの3人はルースフォワードと呼ばれていた。オールブラックス(ニュージーランド代表)は、そうでもなかったけど、タイトフォワードがボールを持って走るとか、せんでもいい時代やった。それをオレは打ち破った」と、それまでの常識を覆したプレーを実践したことを明かした。
今では普通のプレーとなったオフロードパスも、大八木氏らが神戸製鋼時代に披露したときは珍しいプレーだった。
大八木氏は「神戸製鋼はオフロードパスという言葉が出る前にやっていた。だからPRでもライン参加というのをどんどんやっていた。常に新しいことをやっていた」と、常々、進化したチームを目指していたことが、常勝軍団につながった要因であったと言い切った。
◇大野 均(おおの・ひとし)1978年(昭和53)5月6日、福島県郡山市生まれの46歳。福島県立清陵情報高時代は野球部。日大工学部からラグビーを始め、東芝府中では、入社2年目の2002年の東日本社会人リーグから公式戦出場。トップリーグが始まった2003年シーズン後半からレギュラーに定着。現役時代のポジションはロック。ワールドカップは07年、11年、15年に出場。15年・南アフリカ戦の勝利に貢献。日本代表キャップは史上最多の98。現役時代は身長1メートル92、体重105キロ。
◇大八木 淳史(おおやぎ・あつし)1961年(昭36)8月15日、京都市生まれの63歳。伏見工からラグビーを始め、同志社大—神戸製鋼。同志社大時代は大学選手権3連覇、神戸製鋼時代は日本選手権7連覇に貢献。現役時代のポジションはロック。W杯は87年、91年に出場。91年・ジンバブエ戦でのW杯初勝利に貢献。日本代表キャップ30。現役時代は身長1メートル90、112キロ。