【虎番リポート】「どうした?」阪神・湯浅の異変を岩貞が察知 1軍復帰登板翌日に〝あの日〟思い返す
2025年5月9日(金)5時15分 スポーツニッポン
国指定の難病「胸椎黄色じん帯骨化症」からの復活を目指す湯浅京己投手(25)は、4月29日の中日戦で544日ぶりの1軍登板を果たし、ここまで5試合で防御率0・00と力投を続けている。昨年8月に手術し、地道でも着実に歩んできた復活への道。ただ、手術前に大きな分岐点があったことはあまり知られていない。昨年7月、異変を感じ取った先輩左腕からの言葉がなければ…。虎番リポートで迫った。
1軍での復帰登板を終えた翌4月30日、湯浅は改めて“あの日”を思い返していた。
「あそこでやめてなかったら、昨日復帰できていないのかなと。本当にサダさんがいなかったら…どうなっていたか分からない」
さかのぼること約9カ月前の昨年7月12日。ウエスタン・リーグ広島戦のゲームメンバーに選ばれていた湯浅はビジターの由宇球場にいた。試合前のキャッチボールでペアとなったのは岩貞。互いに腕を振って距離を広げていく中で、先輩左腕が異変に気づくのにそう時間はかからなかった。
「ボールの質、胸郭の柔らかさ、腕のしなり、由宇で見た時に本当にガッチガチになっていて。何それ、湯浅どうした?みたいな。自分の目に焼き付いている湯浅のボール、フォームとはかけ離れていてびっくりした」
自己最多59試合に登板し最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得した22年。試合前のキャッチボールパートナーが岩貞で、いわば背番号65の最も良い時を知る同僚と言えた。
「湯浅が一番活躍していた22年は、ほぼ1軍でキャッチボールしてて。良かった時はキャッチボールを見て、本物だなと。他とは比べものにならないボールを投げていたので」
昨年7月当時は「胸椎黄色じん帯骨化症」と診断される前で、湯浅は春先から右足の脱力感や脇腹の違和感と戦っていた。一進一退の日々で、6月は感触が良かった。そのため「我慢していればいつかは良くなるだろう」と信じて由宇遠征に同行。自分で踏めなかった“ブレーキ”を促したのが、岩貞だった。
「キャッチボールが終わった後にどうしたん?て聞かれて。サダさんに言われてなかったら自分は我慢して投げていたと思います」
第三者の言葉を聞いていったん、立ち止まることができた。その後、球団トレーナーにも相談。一度マウンドで投げてみることになり、腕を振ったが「無理でした」。すぐに緊急帰阪が決まった。
荷物をまとめる湯浅に岩貞はこんな言葉もかけている。「いま離脱してチームに迷惑かけてしまうとかじゃなく、おまえの野球人生を考えたら絶対にここで帰った方がいいよ」。結果的にこの日がきっかけとなってリハビリ組に入った右腕は「胸椎黄色じん帯骨化症」と診断され、約1カ月後に手術を受けた。
「自分は基本、我慢するタイプなので。当時はどうしたらいいかな、という感じで毎日を過ごしていた。サダさんがいなかったらいろいろ遅れていたと思う」。失意の「7・12」があったからこそ、湯浅京己はマウンドに帰ってくることができた。