世界遺産登録をめぐり、2008年にカンボジアとタイで国境紛争が勃発…天空にそびえるアンコール朝の傑作寺院の魅力

2025年1月20日(月)6時0分 JBpress

(髙城千昭:TBS『世界遺産』元ディレクター・プロデューサー)


世界遺産登録がタイと国境紛争を引き起こす

 東南アジアに13世紀、推定80万もの人口を擁する都をもつ巨大な王国があった。中世ヨーロッパ最大の街・パリが、まだ人口10万に満たない頃のことだ。その版図はメコン川の流域を中心に、現在のベトナム南部からラオス、タイにまで及び、ほぼインドシナ半島全域を網羅していた。それがカンボジアの母体になったクメール王国であり、王都だったのが世界遺産「アンコール」である。歴代の王たちが、9世紀から600年にわたり即位の度に新たな“都城”や“寺院”を造営したため、600以上の石造りの遺跡が残されている。

 なかでもクメール建築の最高傑作といわれるのがアンコール・ワットだ。アンコールは「都市」、ワットとは「寺院」を意味する。砂岩のブロックを30年かけて積み上げ、ヒンドゥー教の宇宙観を表した。

 このアンコールから北東へ約140km。カンボジア平原を断ち切るかのごとく、突如現れる絶壁の連なりがダンレック山脈である。その一角に、平原から見上げると円錐状のピラミッドを想わせる山(標高625m)……その頂点に建造されたのが世界遺産「プレアヴィヒア寺院」(登録2008年、文化遺産)だ。アンコール以前からの聖地であり、有力な拠点の一つだった。

 突き出した岬にも似て、三方は断崖。最奥にある第一楼閣は、東南の角がなんと崖からはみ出していた。山の地形を活かして、北から南へ高度を上げながら一直線につづく800mの参道は、まるで天国への架け橋のようだ。俗世と天上界をつなぐ入口には、7つの頭を持つ大蛇ナーガ像が横たわる。参道に沿って4段の人工テラスが設えられ、第五楼閣から第一楼閣へ真っすぐ徐々に高まっていく。

 楼閣にほどこされた精巧なレリーフが、夢見心地にさせながら神の園へ。“列柱の参道”には、両脇にシヴァ神の象徴であるリンガ(男根)の石柱が立ち並ぶ。今でこそ第一楼閣の中央祠堂はくずれ廃墟と化しているが、元は山に降臨したシヴァ神をそこに祀った。

 こうした聖山の麓に人々が住みこみ、長い参道を昇って山のお堂で季節ごとの祭りを行う。真一文字の伽藍は、クメールの古い形式の寺院なのだ。やがて都が平原に遷ると、人工的な山(堂塔)を神の住み家に見立てた、アンコール・ワットで集大成されるピラミッド型祠堂へと発展を遂げていった。

 クメール寺院の成り立ちを解き明かす、紛れもない“傑作”として評価され世界遺産になったプレアヴィヒア寺院だが、登録をめぐってタイとの国境紛争を引き起こす最悪の事態を招いた。なぜなら500mもの断崖の上に建つ寺院は、まさに国境線の上にあるのだ。


銃撃戦よる死傷者も出る紛争へ

 かつてクメール王国は、ダンレック山脈を越えて東北タイまで領土を広げていた。しかし、15世紀にアンコール朝が滅亡すると、その峰々はタイの支配下に置かれる。世界遺産は、所有する国による「自薦」に基づいている。ユネスコによる登録は、そこがカンボジア領だと認めることにもなるのだ。タイがこれに猛反発した。

 2008年の登録直後に、両国が数千人規模の軍隊を派遣し、寺院の周辺でにらみ合う。時に銃撃戦があり死傷者も出た。地雷をふんだタイ兵士が片足を失う事件も起きる。2年後には、武力衝突は他の国境地帯にまで飛び火したのだ。「平和の砦」を築こうとする世界遺産の理念からすれば、本末転倒も甚だしい状況に陥ってしまった。

 研究者は、2つの原因を指摘している。先ずは「タイ・カンボジア両国が、異なる国境線が引かれた地図を使っていること」。タイはアメリカの地図を使い、カンボジアはフランス地図によるが、それぞれがプレアヴィヒア寺院は自国領だ。ややこしいのは山脈の分水嶺に従って国境線を引いたこと。2つの地図にズレが生じて、4.6km2もの未確定地域がある。

 19世紀にヨーロッパの帝国主義にさらされるまで、タイやカンボジアは国境意識が乏しかった。各地の支配者に“朝貢”を求める、間接支配を行ってきたのだ。もう一点は、植民地化により領土を失うことで、国境を守る意義を先鋭化させていったという。

 2013年、ハーグ国際司法裁判所で、寺院はカンボジア領であることが確定した。これにより紛争は沈静化、周辺に埋められた地雷もすべて撤去された。カンボジア側からの観光は始まっている。しかし、タイ側のゲートは封鎖され閉じたまま。2023年にタイの県知事が観光客のアクセスを求めているが、いまだ実現していない。

 そもそも一直線の参拝ルートは、タイ側からを想定している。高低差120mの石畳を登っていき、天国にもっとも近い峰の上で神に祈る。崖上から見渡すと、カンボジア平原の空の下にあるのが壮麗な都・アンコールだ。この自然と一体化したプレアヴィヒア寺院を、人為的な分断線で閉ざしてはならない。

 領土というナショナリズムを、大人しく眠らせる手立てはないものだろうか?

(編集協力:春燈社 小西眞由美)

筆者:髙城 千昭

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