昭和の灯りをたずさえて PUB高砂物語【絶滅寸前!? 昭和メシ】vol.4
2025年1月24日(金)18時0分 食楽web
食楽web
住宅街の片隅にぽつんと灯る灯り。気にはなるけれど、勇気が出ずに素通りしてしまう。神奈川県横浜市・大口の『PUB高砂』も、そんなお店の扉のひとつでした。どこか懐かしく、それでいて少し敷居が高い。そして初めて開ける扉にはいつも少しの緊張が伴います。
扉を開けた先に星屑のステージ
天井には星 カラオケのステージもあります
中に入ると、天井には小さな星のようにきらめく電飾が。深いロイヤルブルーのベロアのソファーは、品格と温かさを同時に感じさせ、長い年月を過ごしてきた店だとすぐに分かりますが、古びた感じはせず、むしろ洗練されています。
カウンター席はアットホームな雰囲気
「飲み物は1杯1000円、ボトルなら5000円からですよ」と声をかけてくれたのは、控えめながらも優しさが滲む女性のスタッフさん。その穏やかな物腰に緊張がほどけていきます。
メニューとシステムがわかれば安心です
食事メニューも豊富。「イカバター」が人気とのこと
穏やかな雰囲気のマスター
そして、店の奥から現れたのは白いエナメル靴を履きこなしたオーナーのマスター。聞けば、お店は56年目だといいます。入れ替わりの激しい飲食業界で、半世紀以上もお店が続く秘訣を聞いてみると、マスターが語り出したのはご自身の人生。これが最高の酒のアテになるのでした。
北の大地から始まる物語〜網走からの脱走〜
ハイボールがすすむ、スナック菓子
マスターの人生は、昭和の青春ドラマのように波乱万丈でした。故郷は北海道の網走。高校時代、友人と「都会へ出よう」と高校を中退し、街からの脱走を企てたといいます。ボストンバッグ一つで家出を試みましたが、駅員をしていた知り合いの親父にすぐに見つかって失敗。それでもなんとか網走から抜け出し、札幌の夜の街へとたどり着くことに。
「当時の札幌には、流しのギターの仕事があったんですよ。40人くらいいたかな。流しを取りまとめている事務所に住み込んでね。ギターなんて触ったこともなかったけど、先輩に毎日コードを教わりながら一曲一曲覚えたんです」
と、懐かしむように笑うマスター。初めての仕事は3曲100円で歌うこと。少しずつ腕を磨き、やがて3曲200円に値上げできるようになったといいます。
札幌から脱走し、横浜・鶴見へ
マスターの話を肴に盛り上がるカウンター席
しかし、事務所には上納金のルールがあり、稼ぎの自由はあまりなかった。「こっそり売上を自分の懐に入れたら、すぐにバレちゃいましてね」と苦笑するマスター。気まずくなり夜中に窓から荷物を投げ出し、事務所から脱走。
「流れ流れての人生ですよ」と笑います。
函館から連絡船で仙台へ渡り、鈍行列車に揺られてたどり着いたのは横浜・鶴見。昭和39年のこと。当時の鶴見は京浜工業地帯の発展もあり、労働者たちが夜の街を楽しむ場所だったという。
「よくリクエストされた曲は、三橋美智也、藤山一郎、橋幸夫。100曲は毎晩歌っていましたね。全部で1000曲くらい覚えましたよ。流しをやめる頃には3曲1000円ぐらいまでになりました」
そう語る姿に、夜の街で生きた青春が滲んでいました。
「PUB高砂」の誕生
マスターの白いエナメル靴
23歳で大口に6坪の店を構えたのが『PUB高砂』の始まりでした。近隣の子安は漁師町として栄え、漁師たちが賑やかに夜を楽しむ光景が広がっていたそうです。昭和57年には現在の店舗に建て替えられ、地元の人々に愛されながら昭和、平成、令和と時代を越えて続いてきました。
「バブルの頃はね、建設会社の方々や漁師さんたちがよく来てくれました。本当に賑やかでしたよ」と懐かしみます。
静かに響くギターの音色
ギターの弦を張るマスター
「マスター、1曲弾いてもらえませんか?」と軽い気持ちでお願いすると、マスターは少し困ったような表情を浮かべながらもギターを手に取り、
「もうね、指が曲がらなくなってしまって、長いこと弾いてないんです」と言いながらも、久しぶりに弦を張り替え、チューニングを始めてくれました。
人生の相棒のギターと
マスターが押さえたコードから響く音色はとても静かで優しく、店内の空気が一瞬にして昭和の夜へとタイムスリップ。
お店を長く続ける秘訣とは?
スタッフのみなさん
そんな「PUB高砂」が長く愛されている理由を尋ねると、マスターは少し照れたように答えます。
「良心的であり続けることですね。時代が変わっても、お客さんを大切にすること。何より、人に恵まれました。それが大きかったです」
その言葉の裏には、半世紀以上にわたり、地域と共に歩んできた自信と感謝が滲んでいました。
店内では、常連さん達の歌声が心地よく響き、評判の良いカラオケの音響に乗せて、誰もが気持ちよさそうにマイクを握っていました。その光景は、時代が移り変わっても人々の心の中に変わらず存在する、「楽しさ」そのもの。
お会計をお願いし、扉を閉め、ふと振り返る。看板の明かりが控えめに輝いていました。その光は、昭和から続く記憶を静かに見守る地域の灯台のようでした。
●SHOP INFO
PUB高砂
住:神奈川県横浜市神奈川区松見町1丁目6-2
tel:045-432-9236
営:19:00〜2:00
休:日曜、月曜
●著者プロフィール
鈴木英司
1977年横浜生まれ。
普段はデジタルを追い、土日は未だドアを開けたことのないお店を訪れ昭和へのタイムリープの扉を探す。好きな場所は路地裏。
(編集◎ヨネダ商店)