伊藤比呂美「さよなら、谷川俊太郎さん」

2025年2月21日(金)12時30分 婦人公論.jp


(画=一ノ関圭)

詩人の伊藤比呂美さんによる『婦人公論』の連載「猫婆犬婆(ねこばばあ いぬばばあ)」。伊藤さんが熊本で犬3匹(クレイマー、チトー、ニコ)、猫3匹(メイ、テイラー、エリック)と暮らす日常を綴ります。今回は「さよなら、谷川俊太郎さん」。谷川さんと「死に就いて」の対談を切望していた伊藤さん。谷川さんのある一言で対談が叶ったそうで——(画=一ノ関圭)

* * * * * * *

あたしはこの夏、ボイストレーニングのレッスンに通った。なぜそんなことをという経緯は省略する。レッスンの前に、歌いたい曲を一曲選んでくださいと言われた。ちょうど対談集の『ららら星のかなた』を作っているときだったから、頭の中が谷川俊太郎だらけ、それで「鉄腕アトム」にした。昔々アメリカのどこか、誰かの家のパーティーで、谷川さんと「鉄腕アトム」をデュエットした。うまく歌えたとは言いがたい。いつかリベンジしたいと思っていた。

だいぶ前からあたしは、死について考えているに違いない高齢の人々に聞いてまわっていたのだった。石牟礼道子さん、山折哲雄さん、寂聴先生で、それぞれ対談本にした。

「そのうち死についてインタビューさせてもらえませんか」と谷川さんに言ってみたことがある。二〇一〇年のことだ。「いいですよ」と谷川さんは答えたが、一瞬置いて「でもそのときその気にならないかもしれないよ」。口調が鋭かったのであたしはひるんだ。

時間は経ち、その間にも谷川さんとは、何度もいっしょに朗読したり対話したり。二〇二〇年には『婦人公論』本誌で対談をした。話はもう少しで死に及びかけた。もうひといき、これなら「死に就いて」の対談ができるかもしれないと思った。ところが編集者が本の企画を、あと十時間ほど対談してこれこれこういう章立てでと打診したら、そんな大層なことはやりたくないと断られてしまった。

あきらめきれなくて、あたしは谷川さんに電話した。畏れ多くてめったに電話なんかしませんよ。でもそのときはした。しないではいられなかった。そしてみなさん、あたしはすごい言葉を聞いたのでした。

あたしが谷川さんに「だってあたしはもっと谷川さんと話したいんですよ」と言ったら、谷川さんがこう言ったのだ。「オレだって比呂美さんと話したいよ」。

総毛立ったんです。

本人の本意はともかく、あたしは殺し文句にやられた。そりゃまあ、誰にでも愛想がいいとご本人もおっしゃっている。それはそうでしょうが、あたしはこの後何十年生きたって、こんな言葉は二度と聞けない。この男を慕わずに誰を慕う。あたしはぜったいに対話を続ける。そう思いきわめ、それならこうしましょうと提案したのだった。

何も計画しない。ただあたしが谷川さんちに行く。そして雑談する。それだけ。本を作るという可能性は残したいから、構成役のライターは同行する。会話は録音する。でも編集者は同席しない。ごく個人的な雑談、本にできなければ、それでおっけい。

谷川さんは引き受けてくださった。それで冬も春も夏も、そして秋も、あたしは、構成者とふたりで谷川邸に通った。

対談はまとめられた。あたしは言葉をすみずみまで丹念に調整した。それにだいぶ時間がかかった。その間ずっと頭の中で、谷川さんの声、谷川さんの口調や反応をくり返していた。頭の上に谷川俊太郎が乗っかったまま生きてるような数ヵ月だった。

それからさらに時間がかかった。谷川さんのあとがきと詩が来なかった。秘書のKさんを通じて、書きたいけど身体がついていかない、つい横になってしまう、九十二歳の身体が苦闘しているのも伝わってきた。

『ららら〜』の中にこんな箇所がある。お父さまの谷川徹三さんが九十一歳のとき、美術館を見ようとバルセロナまで行った。谷川さんが介助役で。ところが美術館の前で「行かない」と言い出した。谷川さんもさすがに腹を立てて、目の前まで来てなんでって。「でも今、彼の心情がすごくよくわかるの」。

どういうことですかと聞くと「疲れたんですよ」と谷川さんは答えた。谷川さんも、こんなふうに疲れているに違いなかった。

しかしあとがきは来た。とうとう来た。その二日後には詩が来た。しぼり出すような詩だった。あたしたちがよってたかってしぼり出させたんだろうと思った。あとがきにも詩にも、形がなかった。七十年以上詩を書いてきた人の最後の表現がこれで。凄まじかった。

いろいろ飛ばします。あの日あたしは、斎場に電話して予約を取った。葬送の新しいシステムなんだと思う。お通夜でもお葬式でもなく、遺族も立ち会わず、個人で故人と向き合えるという。

朝の斎場はひっそりして、誰の葬儀もやっていなかった。待ち合わせていた高橋源一郎さんが喪服姿であらわれた。谷川俊太郎と名札のあるドアを開けて中に入ると、明るくて厳粛な、誰もいない部屋。え、谷川さんは、と一瞬思ったが、谷川さんは、人としてじゃなく、遺体として、棺の中におられた。

会話なんて夢みたいなものだ。断片的に思い出すけど、思い出してもつなぎあわすことができない。源一郎さんと棺のそばで交わした会話─「普通はご遺体を見るのが怖い、でも今は怖くない」とあたし。「ああ怖くないね」と源一郎さん。「ちっとも悲しくないね」「ああ悲しくないね」「なんだか徹三さんに似てるね」「ああ似てるね」。

話題は谷川さんとの記憶にうつり、谷川さんの詩についてうつり、谷川さんが押し広げていった日本語について、戦後詩について、文学について、講演してるみたいに大きな声で、身振り手振りで、お客は谷川さんひとり。あたしたちはふたりで、谷川さんに聞かせよう、谷川さんを楽しませようとしていたみたいだった。

それで、夏に始めたボイトレ。秋になったら忙しくなって通えなくなった。基礎訓練も途中のままだ。だからあたしは「そらをこえて、ららら」までしか歌えてないのだ。

婦人公論.jp

「谷川俊太郎」をもっと詳しく

「谷川俊太郎」のニュース

「谷川俊太郎」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ