2日間の当直で1回は誰かが死ぬ環境で勤務してきた和田秀樹の死生観「死への不安や家族を亡くした悲しみに時間を費やすのはもったいない。なぜならば…」

2025年2月25日(火)6時30分 婦人公論.jp


(写真提供:Photo AC)

厚生労働省が公表した「令和5年(2023)人口動態統計(確定数)の概況」によると、2023年の死亡数は157万6016人で、前年より6966人増加しました。いつかはおとずれる<死>について、年間200人もの死に立ち会ってきた精神科医・和田秀樹先生は「みんな死ぬのだから、必要以上にこわがったり、不安になることもない」と話します。そこで今回は、和田先生が「ひとりになってからどう生きるか」を指南した新刊『死ぬのはこわくない —それまでひとりを楽しむ本』から、一部を抜粋してお届けします。

* * * * * * *

みんな死ぬんだから


死ぬのはこわいことではありません。

みんな死ぬのだから、恐れたり怯(ひる)む必要もありません。

必要以上にこわがったり、不安になることもないのです。

年間200人の方を看取ってきて、死の実情をこの目で見てきた私だからそう言えます。

それでも、たとえ「死ぬのはこわくない」と口にしている人でも、本心では「死にたくない」と思っていたりします。年をとるほど、そのように思う人が多くなるようです。

自分は決して死なないと思っているので、死という避けられない現実を見たくないのかもしれません。

人は死ぬことにも死なれることにも恐怖と不安を抱くものです。

それでも、もしあなたが夫や妻、家族を亡くしてひとりぼっちになって、ずっと悲しみに時間を費やしているとしたらいますぐやめなさい。

そんなことよりも、その日まで、自分らしく自由に楽しく生きることに時間を使うべきなのです。

せっかくひとりになったのだから、その日までせいいっぱいひとりを楽しんでください。自分の時間を思い切り充実させて暮らしてみてください。

死がこわくて不安になる、夫や妻、家族といった大切な人の死をずっと悲しんでいる、そんな不安を抱いている時間はもったいない。

なぜなら、遅かれ早かれ、誰もが等しく経験することだからです。

当たり前に、皆さん年をとれば、自然に死んでいくのです。

年間200人以上の死に立ち会って


私は、浴風会病院という高齢者専門の総合病院に長い間勤務していました。在院者の平均年齢が85歳くらいの病院だったので、死に立ち会うことも多く、その数は年間200人以上、つまり二日間当直をすると、一回は誰かが死ぬというわけです。

当たり前の日常の中で、誰かが死んでいくのです。

大勢の死を見てきた私からいわせると、死は特別なものではありません。まったくドラマティックじゃないし、ごく平凡に訪れるものです。ほとんどの人が死というものを自分の身に起こる劇的なものであるようにイメージしていると思いますが、それは間違いです。

死が近づいているときに、意識がはっきりしている人はいないので、今、死んでいっているという自覚はありません。だいたいの人は死ぬ何日か前から意識がないので、「このままじゃ死んでしまう」などという恐怖を感じる感覚もないのです。

ドラマや映画のように、死ぬ寸前に家族を呼んで何かを言い遺すという人を見たこともほとんどありません。例外的に、長い間ガンを患っていた高齢の患者さんが亡くなるときに「今までありがとう」と酸素マスクを外していうことはありますが、それぐらいです。のたうちまわって苦しんで死んでいくなどという人も、見たことがありません。

たいていは、生が緩やかに変化していく先で、グラデーションが薄くなって死へ移行するというと分かりやすいでしょうか。その場合、最期は寝たきりになり、「あれ、また眠っているなぁ」とまわりの人が思う時間が増えます。そして、目を覚ますことが減り、死んでいくのです。

死について考えるなら、死生観を持つことを意識してください。これからは「自分がどんなふうに生き、死んでいきたいか」という死生観を具体的に持つといいと思います。死ぬのがこわいとむやみに不安に感じたり、家族や大切な人たちの死をなげき悲しみながら生きるより、よっぽど意義のあることです。

死生観について考え始めたきっかけ


私自身が、死生観について考え始めたきっかけについて話しましょう。

実は、一度だけ死を覚悟したことがあるのです。


(写真提供:Photo AC)

数年前、血糖値が急に上がり、一か月で5キログラム体重が減少したことがありました。結果的には糖尿病でしたが、膵臓ガンが疑われ、多くの検査を受けることになったのです。もし末期の膵臓ガンであれば、余命はせいぜい2年です。

そのときに「膵臓ガンだった場合、治療は受けない」と真っ先に決めました。当時、抱えていた仕事も相当ありましたし、書きたい本もたくさんありました。治療をすれば体力が落ちて、やりたい仕事ができなくなると思ったのです。

膵臓は肝臓とともに「沈黙の臓器」と呼ばれていて、自覚症状が出たときには、かなり進行していることがほとんどです。もしガンだった場合、つらい治療をして心身ともにボロボロになって死ぬのは嫌だと思いました。

どうせ死ぬなら、症状の出ないうちに思いっきり仕事をしよう。そして、借りられるだけお金を借りて(踏み倒される側の方には大変申し訳ありません)、つくりたい映画を撮ろうと決めました。

何の治療もしなければ、ガンは比較的死ぬ寸前まで動ける病気です。動けるうちは、好きな旅行もできるでしょう。美味しいものを食べる体力もまだあるはずです。

人生の最期に、なるべく長く元気でいて、好きなことをやりたい放題やって死んでいく。これが私の死生観です。このとき、はっきりと分かりました。

死は、生の延長線上にある現象


結局、いくつか受けた検査でガンは見つかりませんでしたが、この考えは今の生きかたに活かされています。死生観を持つことにより人生の方向性が定まり、ずいぶん生きやすくなりました。

死は、生の延長線上にある現象に過ぎません。恐れることもないし、過剰に意識する理由もありません。何より、いずれみんな死ぬんだから、ビクビクしていても仕方ないでしょう。

もし心安らかに旅立つことを望むなら、楽しくて笑顔がこぼれてしまうような思い出をたくさんつくってください。今からでも充分間に合います。これまでしようと思っていたけど縁がなくできなかったことや、躊躇していたことには、迷わず挑戦しましょう。そうした経験で得られる喜びは、これから生きていく力につながります。

※本稿は、『死ぬのはこわくない —それまでひとりを楽しむ本』(興陽館)の一部を再編集したものです。

婦人公論.jp

「不安」をもっと詳しく

「不安」のニュース

「不安」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ