「数学って実は汚かったんだ」AIの登場で2500年続いた数学の見方が変わる理由とは?《ブンゲン先生が解説》
2025年4月18日(金)7時0分 文春オンライン
〈 『呪術廻戦』の五条悟が「マイナス×マイナス=プラス」で強力な呪力を生み出せるのはなぜ?《ブンゲン先生が解説》 〉から続く
「なんで数学をしなきゃいけないんだろう」「数学をやってなんのためになるんだろう」と怒りにも似た問いをかけるド文系編集者に、数学者はどう答えるのでしょうか。
ここでは、『 数の進化論 』(文春新書)から一部を抜粋。「チャート式」の監修や『数学の世界史』など多数の著書で数学の魅力を広め続ける“ブンゲン先生”こと加藤文元氏(ZEN大学教授、東京工業大学(現・東京科学大学)名誉教授)が解説します。(全3回の3回目/ もっと読む )
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数学も「シュレーディンガーの猫」に?
加藤文元(以下、文) 数学はまさに今、変革期にあるような気がします。「数学的な正しさとは何か」というところも、だんだんと変わってきている。その一つには、量子力学の影響があります。量子力学が生まれてすでに100年が経過しましたが、量子力学的な世界観の影響は、数学にもかなり具体的に及んでくるようになりました。

編集者(以下、編) 量子力学といえば「シュレーディンガーの猫(註)」ですよね。箱に入れられた猫は生きているのか死んでいるのか……実際に観測するまでは確実ではない。数学もそのような考え方へと変わっていくわけですか。
(註)オーストリアの物理学者エルヴィン・シュレーディンガー(1887〜1961。1938年のドイツによるオーストリア併合の際にイタリアに亡命。1939年にアイルランドに亡命)がおこなった思考実験。一定確率で原子核崩壊を起こす放射性物質と、原子核崩壊を検知すると毒ガスを放出する装置と一緒に箱に入れられた猫は、蓋を開けて観測するまで生きた状態と死んだ状態が併存するという、量子力学の考え方が表れている。
文 決定論的な数学から、統計的・確率的な数学の見方へと変わっていく。つまり、「数学とはバチッと答えが出るものだ」から、「バチッと答えが出るのは例外で、ほとんどは統計的なものでしかない」という新しい数学観に昇華していくかもしれません。先ほどのabc予想でも、「大体」という言葉が出てきましたよね。
数学にはかなりのパラダイム変換が起こる
量子力学の話で言えば、非常に有名な「二重スリット実験」があります。2つのスリット(細長い穴)があいた板を用意して、そこに向けて電子を飛ばしていく。物質には「粒」と「波」の2つの性質があるのですが、どのスリットを電子が通ったのかを観測することで、その振る舞い方を調べようというものです。この実験では、一個一個の粒子がどのスリットを通るのかを把握することはできませんが、何パーセントの粒子がスリットを通っていくのかということは、かなり正確な数値で予測できるのです。
そうしたふうに数学も、「決定的な正しさ」よりも「事実的な正しさ」のほうに振れていく可能性がありますね。個々の具体例に関しては何もわからないけれど、統計的にはかなり正確に定量的にその確率を評価できる。22世紀の数学の正しさは、量子力学的な正しさに似ていくのではないかと思います。もうすでにその片鱗は、最近よく耳にする量子計算とか、量子コンピュータの原理なんかにも現れています。
編 かなりのパラダイム転換が起こりますね。
文 パラダイム転換を引き起こす要因としては、もう一つ、最近話題の機械学習の存在も考えられます。機械学習とは、コンピュータに膨大な量のデータを読み込ませて、さまざまなアルゴリズムに基づいて規則性や関係性を学習させる技術のことをいいます。そのなかでも、人間の神経細胞(ニューロン)を模して生み出された深層学習(ディープラーニング)は、より複雑なデータを扱えるようになりました。

機械学習による“ブラックボックス”化
深層学習の中身をみていくと、ものすごくたくさんのノード(情報処理をおこなう場所)がお互いにつながり合っている。入力層から入ったデータは、大量のノードがつながっている中間層を伝わっていき、出力層で最終的な予測が出てきます。ただ、結果が出るまでの過程は、ほぼ“ブラックボックス”となってしまっています。何百、何千、何万とあるノードがどのような働きをしたと具体的に説明できるわけではありません。人間の脳も同様に、一個一個のシナプス(神経細胞の接続部分)の働きを説明することは、おそらく今後も困難だと思うんです。ただ、細かいところの仕組みはわからなくても、「全体としてはこういうことができているんだ」ということは、かなりの確度をもって説明できている。
編 数学においてもプロセスは重要でなくなる?
そうかもしれません。というより、「プロセス」の意味がどんどん広くなっていくという感じです。これまでの数学では、ある一定の結論を出すプロセスを全部明らかにしていき、なぜその証明が成立するのかをすべてちゃんと説明できていました。いわば究極の“アカウンタビリティ(説明責任)”が大きな特徴だったのです。これからの数学においては、なかなかアカウントできないものがたくさん出てくる。つまり、確率論的にしか正しさが担保できないとき、従来的な意味での「プロセス」では証明を書いてみせることができない定理もあり得るのではないかと思うんですね。すべて明確に説明できなくても、結果が大体合っていて、その「確からしさ」がちゃんと評価できるとか。
モラルハザードはすでに始まっている
編 話を聞いていると、今までの価値観が崩壊しそうです。
文 “モラルハザード”はすでに始まっていますよ。まあ、そもそも論証的な数学なんて、2500年くらいの歴史しかもっていませんから。トロイア戦争よりも後と考えると、わりと新しく感じますよね。古代ギリシャ人たちが証明による論証数学をローカルに始めたのが、「意外といいじゃん!」みたいな形でウケてしまって全世界に広がり、様々な紆余曲折はあったけれども2500年間も栄えた。
その数学が現在、転換点に立っているというだけの話です。3000年後の人間が振り返ると、「今の数学って、第二次世界大戦とか、あの頃にできたらしいよ」「えっ、そんな新しいものだったの?」みたいな話をするかもしれません。
というか、今までの数学の正しさについても、「たまたま正しかっただけなんじゃない?」と、私は思うんです。
編 数学のスパッとした正しさに魅力を感じるのに、「たまたまですよ」と言われては、なんかモヤッとします。頭を捻りながら頑張って正解に辿り着いたのに、「いや、あなたの出した答えは正しいんだけど、それは一時的なものなんですよ」と言われたら、誰だってブチ切れると思いますけど?
来るべき数学の汚さの時代に向けて
文 うん、この話はあんまりウケがよくないんですよね。例えば三平方の定理は、それによってひとつの幾何が成り立ってしまうというほど正しい定理です。でも、そうした「決定論的正しさ」はすごく例外的なのではないかと思っていて。私たちは例外的で珍しいものを見たときに美しさを感じるわけですから。つまり、ほとんどの数学は、そんなに美しいものではない。
編 がーん! ここまで数学の神秘性や美しさについてさんざん話をしてきたのに、最後にこの仕打ちですか。
文 甘いですね……世の中っていうのはもっと汚いものなんだよ……。まあ、だからといって、「一意的な答えが出る」という意味での数学が損なわれるわけではありません。たまたまであったとしても、正しさというものの崇高さは崩れない。そうした価値の、数学全体のなかでの位置づけが変わるだけです。
我々は来たるべき数学の汚さの時代に向けて、気持ちを準備しておくべきです。「数学って実は汚かったんだ。でもそのなかには、美しいものもあるんだ」くらいに思っておくのがいいかもしれません。
(加藤 文元/文春新書)