日本海を望む石垣の山城・村上城、山上の石垣が縄張の鋭さと相まって美しい「佳城」は本丸からの眺望も魅力

2025年5月9日(金)6時0分 JBpress

(歴史ライター:西股 総生)

はじめて城に興味を持った人のために城の面白さや、城歩きの楽しさがわかる書籍『1からわかる日本の城』の著者である西股総生さん。JBpressでは名城の歩き方や知られざる城の魅力はもちろん、城の撮影方法や、江戸城を中心とした幕藩体制の基本原理など、歴史にまつわる興味深い話を公開しています。今回は、新潟県村上市にある村上城の知られざる魅力についてご紹介します。


歩いていて楽しくなれる城

 佳品・佳作という言葉があるけれども、仮に城にも「佳城」という言い方を適用するとしたら、村上城こそはそれに当てはまりそうな城といえよう。近世城郭としては小ぶりな山城だし、天下に隠れなき名城というわけでもないのだけれど、小さいなりにカチッとよくできていて、歩いていて楽しくなれる城なのだ。

 村上は新潟県の北部にある小さな市で、山形との県境、つまりかつての越後と出羽の国境をなした鼠ヶ関(ねずがせき)までは40キロ足らずだ。戦国時代、このあたりは本庄氏という国衆の領地で、村上城がその居城であった。越後北部の国衆たちは上杉謙信に対して叛服常ない態度をとり続けて、阿賀野川より北の国衆どもという意味で「揚北衆(あがきた)」と呼ばれたが、本庄氏はその揚北衆の中心的存在であった。

 けれども、新幹線から信越本線または白新線、羽越本線と乗り継いで当地に来てみると、守護所のある上越はずいぶん遠く感じられる。米沢や庄内(鶴岡)の方が、ずっと近い。揚北衆だって、そちらとの人的・経済的交流は密なわけだから、彼方遠くの御屋形様ばかり見て行動するわけにもいかなかっただろう、と合点する。

 やがて、上杉景勝が豊臣政権に属して会津へ移ると、揚北衆も上杉家臣としてこれに従って去る。村上城にはいくつかの大名が入ったが、現在見る形に城を整えたのは、元和4年(1618)から寛永19年(1642)まで10万石で当地を領した堀氏であった。

 村上城は標高135メートル、山麓からの比高120メートルを有する独立山に築かれている。またの名を臥牛山(がぎゅうさん)城ともいうが、遠くから眺めると、なるほど牛が寝そべっているように見える。本庄氏時代には、この上に曲輪や堀切を築いて山城とし、東側の山麓に平時の屋敷を構えていた。

 もともと豊臣系の大名だった堀氏は、これを石垣造りの近世的な山城へと造り替え、東側の居館を廃して西側の山麓に広大な曲輪を造って、平時の屋敷や政庁とした。おかげで、城と海との間に城下町を営むことができるようになって、街が栄えることとなった。

 現在、山麓の曲輪跡はほとんど遺構をとどめていないが、山上には立派な石垣がよく残っている。屋敷跡のところからつづら折れの山道を登ると、ほどなく四つノ門跡の虎口に着く。城の縄張に詳しくない方でも現地に立ってみれば、ここが城内に入るための防備厳しい関門であることは、容易に理解できるはずだ。

 四つノ門跡から二ノ丸をへて本丸へ向かうが、狭い通路は常に高い石垣から見下ろされ、虎口を入る度に執拗に屈曲する。二ノ丸の虎口(鐘の門跡)も本丸虎口も、本番の攻城戦だったら、とても生きて通り抜けられる気がしない。

 切石積みの石垣がやや新しく見えるのは、堀氏のあとに入った松平氏の積み直しによるもの。松平氏以降もこの当地には譜代大名が入れ替わりで入って維新に至るが、村上藩は列藩同盟に加わって敗れて城も焼亡した。ただ、戊辰の焼亡から160年を経てみると、廃墟になったおかげで、山上の石垣が縄張の鋭さと相まって、美しく感じられる。

 などと感懐にふけりながら最後の虎口をくぐると、本丸からはすばらしい眺望が広がる。眼下に城下がまどろみ、彼方に日本海の白波が望まれる。海岸沿いに並んでいるのは、瀬波温泉の旅館街だ。

 あ、お弁当を持って登ってくればよかった…、いや、村上は鮭が有名な街だから、城を下りて美味しい海鮮の店をさがした方がよいだろうか…。どちらにしても、電車をたくさん乗り継いで、はるばる訪れてみてよかった。心からそう思える城なのである。

筆者:西股 総生

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