日本UFO史上最重要人物「宇宙友好協会」代表・松村雄亮の超絶エピソード!高尾山でUFOに遭遇、長老宇宙人から告げられた戦慄の未来!

2024年12月12日(木)23時0分 tocana

——超能力、心霊現象、UFO、など、いわゆる「超常現象」分野に深い造詣を持つオカルト研究家・羽仁礼が解説!


 1959年7月10日の夜のことであった。


 男は、東京での打ち合わせを済ませ、午後11時半ごろ横浜の国電桜木町駅に着いた。


 夜も遅く、タクシーもつかまらなかったので、もはや人通りもすっかりなくなった道路を自宅まで歩くことにした。


 日の出町の交差点を左折し、しばらく進むと前方から車が走ってきて、ヘッドライトの中にこちらに向かって来る3人の女性のシルエットが浮き上がった。すれ違う際、一番左にいた女性の顔が見るともなく視界に入った。すると、その女性が男に向け、不思議な笑み浮かべたように思われた。


 ほんの10歩ほど過ぎたとき、なんとなく後ろを振り返ってみると、もはや3人の姿はなかった。すれ違った場所は一本道で、横にそれるような路地もない。不思議に思いながら男がふと上空を見上げると、そこにはフットボールほどに見えるUFOが浮いており、横浜松竹の屋根の上を、右から左へと悠然と横切って行った——。


■UFO研究の黎明期における最重要人物

 男の名は松村雄亮(まつむら ゆうすけ)。日本のUFO研究団体である「宇宙友好協会(CBA)」共同設立者の一人である。


 日本のUFO界において、松村ほど評価の分かれる人物は他にいないだろう。


 CBA以外の日本の研究団体からは、CBAをカルト宗教化し、「CBA事件」を起こした張本人とされる。


 他方、ブリンズリー・ル・ポア・トレンチやジョージ・ハント・ウィリアムソンなど海外の研究家とも密接な関係を維持し、イギリスのUFO専門誌『フライングソーサー・レビュー』の日本特派員を長く務めた人物でもある。そして、日本では最初期に現れたコンタクティーでもあるのだ。


 松村とは、どういう人物だったのだろうか。


■日本UFO史の夜明けとともに

 松村は1929(昭和4)年11月25日、横浜に生まれた。


 父・信雄が航空関係の仕事をしていたこともあり、小学校時代に旧満州に渡り、16歳で「満州航空」の乗員訓練養成所に入所した。終戦後は一旦シベリアに抑留されたようだが、1946年に日本に戻り、その後は国際的な航空雑誌『インタラビア』の日本特派員となった。


 かの有名な「アーノルド事件」が発生し、UFOの存在が世界に認知されたのは、松村が帰国した翌年、1947年のことだった。世界中の航空情報に接する立場にあった松村は、早くからUFOの存在を知り、この現象に興味を抱いた。そこで彼は、空飛ぶ円盤研究グループという研究団体を結成し、英文の『UFO News Report』という機関誌を発行し始めた。


 やがて荒井欣一を会長に「日本空飛ぶ円盤研究会」が結成されると、松村の団体もこれに協力し、松村本人も機関誌『宇宙機』に何度も寄稿している。1957年、日本のUFO研究団体が連名で発出した「宇宙平和宣言」にも、松村は名を連ねている。


 松村が1957年1月16日に撮影したUFO写真は、他の団体からも高く評価されることになったが、この頃の松村はアダムスキーなどのコンタクト・ストーリーに対しては懐疑的であり、荒井欣一がアメリカのコンタクティー、バック・ネルソンの紹介記事を『宇宙機』に掲載しようとしたところ、「この人物は怪しいからやめた方が良い」と忠告したのも松村だった。


 CBAの結成は、1957年8月のことだった。


 設立したのは松村の他、久保田八郎、小川定時、桑田力、橋本健、小川昌子の計6名で、設立の趣旨としてコンタクトを肯定し、宇宙人との友好関係に入ることを目標に掲げていた。


 コンタクトには否定的であった松村が、なぜこのような団体の設立に名を連ねたのかは明らかでない。あるいは、荒井欣一や高梨純一といった他の研究家に対するライバル意識が背後にあったのかもしれない。いずれにせよ松村には、その豊富な海外ネットワークを利用した情報収集とその提供が期待されていた。


 ところが、そうした松村が、冒頭に述べた事件を機に、なんと自ら宇宙人とコンタクトし、以後は「コンタクトマン」としてCBAを率いることになるのだ。


■宇宙人との邂逅

  すでに1958年6月17日には前兆があった。


 このとき松村は、やはり桜木町駅におり、東京に向かうため改札を入ったところだった。その日は、駅の構内に打ち水がしてあった。そこで、打ち水の場所に足を踏み入れた何者かの足跡が、その先にくっきりと残っていた。松村にはその足跡に見覚えがあった。なんと、アダムスキーが会見したという金星人が、砂漠に残した靴跡とそっくりだったのだ。


 アダムスキーのコンタクト・ストーリーに否定的だった松村は、衝撃に打ちひしがれながらも、その足跡の主を追った。しかし、その人物は一足違いで発車した電車に乗って行ってしまった。



 本格的なコンタクトは、冒頭の事件の1週間後、7月17日に起始まった。


 夕方7時頃、桜木町駅に着いた松村は、折からの夕立の中、市電に乗ろうと書類袋を頭にかざして停留所まで走った。そのとき書類を掲げる右腕が誰かに触れ、思わず


「失礼」


と言いながら振り向くと、そこには1週間前の夜、不思議な微笑を残して消えたあの女性がいたのだ。2人は近くの喫茶店に入った。そこでこの北欧系の顔立ちの美女は、自分が最近日本に配属された宇宙人の一人であること、松村は近々、日本にいる宇宙人の指揮官に会うことになる、などと話した。


 この時2人はコーヒーを注文したが、女性はコーヒーに入れるべきミルクをコップの水に注いで飲み、コーヒーには手をつけなかったという。


 松村が日本の宇宙人指導者に会ったのは、3日後の7月20日のことだった。


 会合へと向かう松村が渋谷の道玄坂を歩いていると、何者かに肩をたたかれた。振り返ると、総髪の品の良い外国人紳士が立っている。なぜか、一目見て宇宙人であると了解できた。


 この時、宇宙人は自らについて「日本にいる宇宙人達のキャップである」と名乗り、25日に高尾山頂にUFOが飛んだら、松村をUFOに同乗させると約束した。実は、CBAは25日を「第一回 全日本コンタクト・デー」と定め、その夜、全国でUFOに呼びかけることになっていた。そして、東京地区での実施場所こそ高尾山だったのだ——。



■UFO母船で告げられた戦慄の事実

 問題の25日、一行が高尾山頂に集まったのは午後7時頃だったが、松村はその前から現場で待機し、日が沈んで夕焼けの残る西空の雲の合間に巨大なUFOが浮かんでいる姿を見た。UFOはすぐに雲の間に隠れたが、松村は「これで、自分がUFOに乗せてもらえる」と確信した。


 翌26日の朝、松村はテレパシーに導かれてある場所へと向かった。そこには直径30メートルほどのUFOが着陸していた。


 その上部はアダムスキーが目にした物体に似ていたが、下部は全体的に丸みを帯びて着陸ギアは見えなかった。するとUFOの側面がぽっかり開き、そこからはしごが伸びてきて、松村は出迎えた宇宙人に促されて中に入った。


 乗り込んでからものの15、6分が経った頃、UFOは母船に到着した。母船内部の発着場から降り立ち、廊下へと出ると、そこは長さ2,000メートルあろうかという大通りになっており、まるで渋谷か新宿の繁華街のように大勢の外国人が歩いていた。


 そこを歩いて、百畳はあろうかと思われる大きな部屋に導かれた。


 内部ではテーブルが部屋の半分ほどを占めて半円形に並べられ、ずらりと宇宙人が腰を下ろしていた。中央のやや年取った感じの宇宙人が長老らしく、松村はその正面に置かれたテーブルに招かれ、椅子に座るよう促された。


 じつはこの時期、CBAはある問題を抱えていた。


 この頃、松村はアメリカのコンタクティー、スタンフォード兄弟の著書『地軸は傾く』の翻訳を進めていたのだが、この本の中には、「1960年に地軸が傾く大異変が起こる」とはっきり書かれていたのだ。CBA内部では、この記述をそのまま翻訳出版してよいものかどうか意見が割れていた。


 そこで松村は長老に、この点を尋ねてみた。


 するとその返答は次のようなものだった。


「地球の大変動が極めて近い将来に迫っている。そのため常時地球の観測を行っているが、その正確な期日は宇宙人にもわからない。あなたはその準備のために選ばれたのだ。


 われわれ宇宙人としては、将来の地球再建のために1人でも多くの人類を他の遊星に避難させたい。しかし、決して混乱を招かないよう慎重にやりなさい」


■松村雄亮のカリスマ性、CBAの変貌、そして失踪

 以後も松村は、何度も宇宙人と会見し、大異変に備えた準備を進めるための指示を受けた。


 宇宙人は、「慎重に」物事を運ぶよう強調し、その後「新聞を使ってはならない」とも指示してきた。一方CBA内部には、性急に事を運ぼうとする勢力もいたようだ。こうした動きは、1960年になって「産経新聞」にすっぱ抜かれる。世に言う「CBA事件」である。


 事件の責任を負う形で、松村以下CBA執行部は総辞職した。しかし、1年も経たないうちに松村は代表に復帰し、以後CBAは松村のカリスマ的な指導の下で活発な活動を展開する。


 機関誌『空飛ぶ円盤ニュース』が上質な紙質の豪華版に刷新され、資生堂やソニーなど一流企業の広告も掲載されるにようになった。従来からの機関誌『空飛ぶ円盤ニュース』に加え、研究者向けと銘打った『空飛ぶ円盤タイジェスト』、年少者向けの『ジュニアえんばんニュース』、研究報告ともいうべき『CBA Report』や海外向けの『Brothers』などを続々と発刊。1962年には、アメリカからジョージ・ハント・ウィリアムソンを訪日招待し、講演会を開催している。


 さらに大湯(秋田県)のストーンサークルや熊本のチプサン古墳など日本各地の古代遺跡と宇宙人の関係を主張し、大々的な現地調査を次々と実施。縄文時代の遮光器土偶が宇宙人を象ったものだという説や、輪になって手をつなぎ「ベントラ、ベントラ」と唱える「UFOの呼び出し方」もCBAが広めたものだ。こうした活動の頂点ともいうべきものが、北海道平取町におけるハヨピラのピラミッド建設である。


 この計画は、「古代に地球を訪れた友好的な宇宙人(ブラザーズ)」とCBAが考えるアイヌ神話の文化神「オキクルミ」の聖地に土地を購入し、ピラミッドなどの記念碑を建造するというもので、1963年12月20日に発表された。建設には会員が手弁当で参加し、1966年6月24日には、太陽ピラミッドなどの完成を記念し、イギリスのUFO研究家ブリンズリー・ル・ポア・トレンチや在京の各国大使館代表等を招いた式典が開催された。工事は1971年まで続けられたが、その直後、松村の消息は途絶えてしまう。


 なぜ松村が、会員にも詳しいことを告げずに姿を消したのか、現在も詳細は明らかではないし、その後の消息も不明だ。2000年頃、京都の小さなキリスト教団体に身を寄せたまま亡くなったという証言もある。他方、筆者などは「もしかしたら松村は、ブラザーズに連れられてUFOで他の天体へと運ばれ、そこで密かに人類の行く末を見守っているのではないか」とも妄想してしまうのである。


参考:宇宙友好協会『空飛ぶ円盤ニュース』(1958年8月号)、宇宙友好協会『宇宙友好協会(CBA)のあゆみ』、絃映社『地球ロマン』1970年10月号、天宮清『アイヌ文化神オキクルミカムイに学ぶもの』(トリトンクラブ)


 


※当記事は2019年の記事を再編集して掲載しています。

tocana

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