勝海舟が開設した神戸海軍操練所の実相、坂本龍馬は塾頭どころか入ることすらできなかった?失脚と操練所閉所の関係

2024年12月18日(水)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)


勝海舟、春嶽に援助を要請する

 文久3年(1863)4月27日、勝海舟はその日記に、「摂州神戸村最寄りへ、相対を以て地所借受け家作いたし、海軍教授致し候儀、勝手次第致さるべく候事」(「海舟日記」)と記述た。つまり、幕閣から神戸あたりで勝自身が直接交渉して、地所を借りて家屋を建て、そこで海軍塾を開くことは問題ないとの言質を得たのだ。

 勝は、確かに神戸において念願の私塾を開設する許可を得た。しかし、幕府からの金銭的な援助がなかったため、盟友とも言える越前藩の松平春嶽に献金を依頼することにした。そこで勝は、越前藩の要人である村田氏寿を通じて、私塾開設の経費の援助を春嶽に依頼するため、弟子の中から坂本龍馬を選抜し、福井に派遣した。

 また、勝は松平春嶽の最側近である中根雪江に海軍構想とともに、龍馬の派遣について説明した。春嶽の片腕で、勝の友人である中根にも何らかの助力を期待したのだろう。

 5月20日頃、龍馬は福井に到着し、早速、春嶽の政治顧問として活躍していた肥後藩士の横井小楠と面談した。龍馬は勝塾の設置などの経費として、1000両の拝借を願い出た。横井は躊躇なく、快くその願いを快諾し、龍馬は勝の要望に見事応えることが叶ったのだ。

 越前藩の援助もあり、勝の私塾は6月後半までには開所したと考えられる。塾頭は、龍馬と佐藤政養が務めたらしい。佐藤も勝の門下生で、この後、軍艦操練所蘭書翻訳方や大坂台場詰鉄砲奉行を歴任するなど、勝を大いに支えることになる。


神戸海軍操練所の設置と塾頭問題

 勝塾はスタートしたが、幕府による官営の海軍士官の養成学校の設置は遅れていた。元治元年(1864)5月14日、その開設を前提に、軍艦奉行並であった勝が軍艦奉行に任じられ、作事奉行(建築行政の最高職)格に昇任した。

 そして、大坂船手(大坂湾の警備、廻船の監査をする幕府の役職)が廃止され、所属の船舶人員を養成学校に付属させる命令が発せられた。ようやく、神戸海軍操練所がスタートすることになったのだ。5月29日には、関西在住の旗本・御家人の子弟および中国・四国・九州諸藩の諸家家来について、操練所への入所、修業を許すとの沙汰が幕府より下された。

 この資格では、脱藩浪士の身である坂本龍馬ら土佐藩出身者たちは操練所に入れず、近藤長次郎は「勝阿波(安房)守家来」として入所している。正規の学生ではなく、聴講生と言った感じであろう。つまり、龍馬は正規の役職に就けなかっただけではなく、練習生として操練所に入ることすら不可能だったのだ。

 一般的には、龍馬が操練所の塾頭であったとする言説が、通説としてまかり通っている。しかし、この通り、その言説は成立せず、勝塾の塾頭と混同された可能性が高い。龍馬なら、「さもありなん」と考えられ、今に至ったと考えるのが妥当であろう。龍馬伝説の1つであり、すべてを鵜呑みにすることは出来ないのだ。

 ところで、神戸海軍操練所については、1次史料がほとんどなく、すこぶる謎が多い。そもそも、一体だれが入所したのか、それすら曖昧なのだ。その最大の原因は、神戸海軍操練所が極めて短い期間しか存在しなかったことであろう。今後の研究が待たれるところである。


勝海舟の失脚と操練所の閉所

 開所からわずか5カ月後の元治元年(1864)10月22日、勝に対して江戸への召喚命令が出された。11月2日に江戸に着くと、10日には軍艦奉行を罷免され、勝塾は即刻閉鎖を申し渡されたのだ。当然のことながら、操練所も一気に廃れてしまい、正式には翌慶応元年(1865)3月18日に閉所となった。

 勝失脚(=海軍操練所の閉所)となったのは、新選組が尊王志士を襲撃した「池田屋事件」(元治元年6月5日)および復権を求めて率兵上京した長州藩を撃退した「禁門の変」(同7月19日)に、勝塾生が関与をしていたためである。例えば、土佐藩浪士の望月亀弥太は池田屋事件に遭遇して犠牲になっている。

 勝の弟子たちがこうした反幕府的な事件に関与したことで、勝の幕臣にあるまじき人間関係が問題視された。そのため、勝の召還、そして罷免に発展したのは当然の帰結であろう。龍馬らは、最大の庇護者である勝を失い、あらたな居場所を求めざるを得なくなった。その彼らを丸抱えしたのが、薩摩藩であり、龍馬が薩摩藩士として活躍する背景となったのだ。


坂本龍馬の海軍構想

 最後に、勝海舟の最も知られた弟子である坂本龍馬の海軍構想について、言及してみたい。朝廷は攘夷実行を促すため、文久3年7月17日、監察使として国事寄人の四条隆謌を播磨および淡路に派遣した。その四条に対して、龍馬は無二念打払いを回避し、止むを得ない場合でも、今まで付き合いがあったオランダ船や中国船は区別すべきであることを、また海軍の設置についても、建言しようと画策したのだ。

 結局、龍馬の建言は実現の運びには至らなかった。しかし、龍馬がしようとした建言内容から判断すると、そこには龍馬の国事周旋への積極性とともに、未来攘夷に沿った海軍建設への志向が読み取れる。龍馬は具体的な海軍建設について、西日本における海軍基地を神戸と定め、勅命によって総督を指名すること、また、身分を問わず人材を集め、経費は西国諸侯が負うことを構想していた。

 龍馬には、14代将軍徳川家茂が操練所を開設する許可を出しても、幕府主導での実現は困難との認識があったのだろう。一方で、操練所を国家のものと見なし、幕府に独占させることは回避しようとする深謀も潜んでいたのかも知れない。

 いずれにしろ、これは勝の構想に近く、さらに言えば、横井小楠も同様な海軍構想を示している。このことから、龍馬は両者から影響を受けていたと言えるのではなかろうか。

筆者:町田 明広

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