「両親は死んだ」と言われ、山奥の寺で育ったが…当時中学生だった女性が明かす、突然始まった父親の再婚相手との“地獄のような同居生活”
2025年4月26日(土)12時0分 文春オンライン
生まれてすぐ山奥の寺に兄とともに預けられ、両親は死んだと伝えられていた滝川沙織さん(53歳・仮名)。小学校を卒業する頃に父親が突然現れ、父、父の再婚相手、兄との新しい生活が始まったという。それは、真の地獄の始まりでもあった。
ここでは、ノンフィクション『 母と娘。それでも生きることにした 』(集英社インターナショナル)より一部を抜粋して紹介。愛情のない自分たちの関係を「劇団家族」と呼ぶ沙織さんが語る、継母から受けた酷い仕打ちの数々とは——。(全4回の1回目/ 続き を読む)

◆◆◆
「お母さん」と呼ぶのも嫌になった
「なんか、この子、嫌なのよー。一緒に出かけるのも恥ずかしいわ」
継母は出かけた先の店員さんや、レストランの人たちに決まって、私のことをこう言ってはなじりました。私にわざわざ恥をかかせるようなことを、嬉々としてする人でした。ですから、私にとっては継母と出かけることはいつも苦痛でしかありませんでした。
「なんか、あんたはセンス、悪いわー。なんか、ピント、ズレてるわー」
ずっと、そればかりを言われるので、私はそうなんだと思いました。お寺で育ったから空気を読むとか、そういうことを学びにくい環境だったから、そうなのだと。継母はそうやって、人の前で私を罵ることが大好きでした。
この街に来た当初、私は電車の乗り方も知りませんでした。改札も見たことがなく、切符を入れたら、それを取らないといけないことも知りません。継母に「切符は?」と聞かれたら、「ない」と答えるしかありません。そこでまた、大きな声で怒られました。
「ほんと、何にも知らないんだから! なんで、聞かないのよ!」
怒鳴られましたが、何を聞いていいかもわからないので、聞けるわけがないのです。
私と一緒に出かけるといっても、いつも継母は振り返ることなく、一人でスタスタ歩いていくので、私はよく迷子になりました。迷子になった時も、継母はすごく怒りました。
「なんで、迷子になりそうな時に、私を呼ばないのよ!」
その頃はもう、「お母さん」と呼ぶのも嫌になっていました。
「よく、頑張ったね」
中学の林間学校で、麦わら帽子が必要でした。継母と一緒に買いに行って、「これがいい」って私が言ったのに、継母はお花がいっぱいついたフリフリの帽子にしろと迫るのです。でも、私はその帽子はどうしても嫌でした。
「よその店を覗いてくるから、戻ってくるまでに決めときなさいよ」
その場には、店員さんもずっとついていてくれました。継母が戻ってきて、圧のある声で「どっちにするの?」と迫りましたが、私は欲しい帽子を買ってもらいました。
「よく、頑張ったね」
店員さんがそう言ってくれたのを、今も忘れません。もちろん、その後、継母はプリプリ怒って、私が迷子になろうが、一人でスタスタと行ってしまいました。
私はいつも、一人でした。
劇団家族は週末、よせばいいのに、家族揃って出かけるのがいつものことでした。メンバーは私たち4人と、継母の弟一家と決まっていました。父親と継母は甥っ子と姪っ子ばかりを可愛がりました。私と兄は何も買ってもらえませんでしたが、その子たちにはなんでも買い与えていました。
10歳以上、年の離れた継母の姪と私は比べられ、蔑まれました。家にはその甥と姪の写真ばかりで、私が写っているものは一枚もありません。当時は気づかなかったのですが、明らかに差別を受けていたと、今ならはっきりとわかります。劇団家族の構成員ではありましたが、所詮、両親役の人たちにとって私は「家族」でもなかったわけです。大勢で出かけていても私はいつも一人だと思っていましたし、家にいる時でも一人でした。
学校に行っている時は気が楽でしたが、放課後、友達と遊ぶことが禁じられていたので、友達と親しくなるのは難しいことでした。継母がやっているカメラ屋の前で、バッタリ会った友達と話していたら、店の中から「何、やってんのよー」って継母が大声で怒鳴るものだから、「沙織の母親はめちゃくちゃ怖い」という噂が広まり、誰も私を見かけても声をかけなくなりました。私が誰かと話しているだけで、なぜ、怒られないといけないのか。でも、それが継母のやり方でした。
継母に多少、意地悪なところがあるとはいえ、まだ「普通の人」だったら、何とかしのげたのかもしれません。継母は突然、キーッと爆発する人でした。何の前触れもなく、理性の制御が一気に吹き飛び、手のつけられないような状態になるのです。こちらも父親同様、どこに地雷があるかわかりません。
継母が怒り出したら身体が反応してしまう
ハンバーグを作っておいてと、言われた時のことでした。きっと、私の作ったハンバーグが気に入らなかったのでしょう。継母はキーッとなって、タネの入ったボールを壁に投げつけ、まな板や食器をメチャクチャに床に叩きつけました。そうなると声のトーンまで変わって、ドスの利いた声で怒鳴りまくるのです。継母が怒り出したら、私の髪の毛は逆立ち、鳥肌が立ち、血が熱くなるのがわかります。恐怖のあまり、身体が反応してしまうのです。そして、ああ、また始まったって思うのです。
「殴りたいのを我慢してるんだから、ありがたく思いなさいよ!」
これも、常套句でした。私こそ、本当に、その顔に水をバシャーッとかけるとか、何かアクションをしたかった。そうすればよかった。なんでしなかったんだと、心から思います。
一緒に映画を観るとなっても、その時の私はロボットのようになっていました。自分で、スイッチを入れるんです。「これから、ママハハと映画に行きます」とプログラミングして、「終わるまでの時間を、耐えます」って。これ、もはや、立派な介護ではないですか?
ある時、継母が自分の子どもを持てば、環境が変わるのではないかと思いました。自分の子どもをかわいがれば、ついでに私もかわいがってくれるのではと、思いきって頼んでみました。
「お母さん、私、弟か妹が欲しい」
継母の答えは、あっけないものでした。
「あんたがいじめるから、産まない」
「私、絶対にいじめないよ。すごくかわいがるから」
「いや、あんたは絶対にいじめる」
この時の継母の冷たさも、心を凍らせるには十分でした。
何かを選べと継母に言われても、どっちを選んでも、結局は私が間違っていることにされるので嫌になってしまい、「どっちなの?」と聞かれても、「うん」としか、私は言わなくなっていました。どっちでもいいや、と思ったから。それもまた継母は気に入らなくて、キーッととてつもない咆哮が始まり、その声を聞いて、父親が「おまえ、なんか、文句あんのかー!」って、乱入してくるわけです。
兄が性器を触ってきたことを話しても…
これは、まだ兄が家にいた頃の話です。私は兄が大好きで、兄の横で寝ていましたが、兄が性器を触ってくることがありました。「やめて」と言いましたが、またやってきます。継母に話すと、最初は「寝ぼけていたんじゃないか」と聞き流され、二度目には「そんなの、どこの家にもあること」と何もしてもらえませんでした。寝たら負けだと思って毎晩、布団に入りました。クッションを2つ、身体の上に乗せてズボンのヒモをきつくしばり、その上からベルトを巻き……。中学1年の冬休み、同じ校区内で引っ越して、それぞれの部屋ができてからはなくなりました。それっきりなのですが、最近、ふと思います。兄には、謝ってもらった方がいいのだろうかと。
中学の時は「いい高校に入れ」と口が酸っぱくなるほど言われ、父親と継母から塾に行かされて、意味もわからず通っていましたが、高校生になると塾通いはなくなり、その代わりに毎日、継母のカメラ屋の手伝いをしなければなりませんでした。
継母と一緒にいることがものすごく苦痛で、嫌でたまらなく、駅のホームで一人、泣いていたこともありました。自転車で店に行くのですが、自転車を止めた瞬間、気持ちをパッと切り変えるんです。スイッチを変えるように。そうやって「ただいまー」と言って店に入るんですけど、その「ただいま」の言い方一つで、継母はイチャモンを付けてくるのです。お店では、私への文句ばかり。私にクレームをつけるのを、楽しんでいるようでした。
お客さんなど他人の前で、私をバカにするのも常でした。外では、家の中と違って怒鳴ることはありませんが、じめーっとした嫌なことを言うのです。お客さんが継母に、「それ以上、言わないであげて」と、私を庇ってくれたことがあったほど。その方は継母が席を外した隙に、「いつも、けちょんけちょんに言われてるねー」と、肩をさすって慰めてくれました。
私が高校生の頃には、父親と継母の仲は相当、険悪なものになり、激しい喧嘩が絶えなくなりました。以前はDVサイクルがあり、「ハネムーン期」になると父親が赤ちゃん言葉で継母に甘えたりして、それも気持ちが悪いものでしたが、2人からは「ハネムーン期」なんてなかったかのように消え失せました。
だから、カメラ屋を手伝っていた時、継母にふと、日頃感じていた疑問を聞いてみたのです。
「なんで、結婚したの?」
「強引に。あまりに熱烈で怖くなったから」
「私だけ、知らなかったのかー!」
継母のこの答えは、腑に落ちないものでした。嫌なら、断ればいいのに。だから、次にこう聞いてみたのです。
「私とお兄ちゃんがいるのを知ってて、結婚したの?」
長い間が空いて、継母は一言。
「知らなかった」
数日後、継母から聞かれました。
「あんた、いつから知ってたの?」
「何を?」
「私と血がつながっていないこと」
「最初から、知ってたよ」
最初に、父親から「本当のお母さんじゃないけど」と言われていましたから。
瞬間、継母は高笑いを始めました。理性など、とっくに吹き飛んでいることは瞬時にわかりました。
「これで、やっとわかったわ。なんで、こんなに懐かないのか。なんで、私だけ、知らないのよ! 自分だけ、騙されていたんだー!」
継母は私と兄が、継母を本当のお母さんだと思っていると父親から聞かされていたようでした。
「私だけ、知らなかったのかー!」
「自分だけ、バカみたいじゃないか!」
これまでの咆哮とは比べものがないほど、ものすごい声で怒りを撒き散らし、私は継母に殺されるかと思いました。
「それだったら、育て方、全部、間違えたわー。失敗だったわ」
「私が、血がつながっていると思っているのといないので、育て方、変わるの?」
「変わる! 失敗だった。ちっとも、寄ってこない」
キーッとなったら、ものすごくドスの利いた声で怒鳴りまくる継母。そんなことは父親に言ってほしいし、私が騙したわけでも何でもないのにと思いましたが、あまりに激しい怒りように血の気が引いてしまって、何も言えなくて。怖くて、鳥肌がブワーッと立って、殺されるかもと一瞬、確かに思いました。
「それだったら、最初から間違いだわー」
継母はそう言って、すごい勢いで店を飛び出して行きました。そして、ほどなく荷物をまとめ、家を出ました。
もう、思い出すのも嫌、今でも夢に出てきます。この前も赤いペディキュアを見て継母を思い出し、気分が悪くなりました。
普通は家って安らぐ場所なのだと思いますが、私には牢屋のような、拷問を受ける場所でした。
継母から受けた傷
「ああ、もうダメ、疲れてきた」
継母との思い出を辿る沙織さんが、頭を抱えて苦しそうに目を閉じた。それほど、継母という存在は、沙織さんを深く傷つけ、損ねてきた人間だった。
この継母という女性に、幼い者への愛情を期待するのは無駄なことなのか。せめて継母に、沙織さんと兄へ労わりや優しい思いがあったなら……。母親になってほしいとまでは思わない。
ただ、一つ屋根の下で生きる者として、少女と少年をあたたかな気持ちで見守ってほしかった。
沙織さんはどう思っているかはわからないが、私は「せめて……」と思わずにいられない。
沙織さんは兄と自分が同居するまでは、父親の暴力のターゲットは継母だったと見ている。
夫から殴る蹴るの暴力を受ける鬱屈した感情を、幼い弱き者に吐き出すことで、継母はスッとした快感を得たのだろうか。
自分のストレスを、他者を使って発散するということは、虐待行為に他ならない。
沙織さんと初めて会った12年前は、彼女が継母を看取ったばかりの時だった。沙織さんはがんで余命いくばくもない病床で、継母が(沙織さんの息子の)海くんに「海くん、大きくなったねー。かわいいねー」と話しかけたことで、「許そう」と思った。自分の子どもを愛してくれれば、それだけで許せると。
12年前の取材では、沙織さんにとっての大きなテーマは継母の存在でもあった。継母とは自分にとって何だったのか、自分を愛してくれたのか——、その答えは永遠に失われたにもかかわらず、沙織さんは空に向かって、叫び続けているのだと思えた。
「私だけが知らなかった!」と絶叫して店を飛び出して程なく、継母は家を出た。継母がいない快適な生活が始まったと、高校生の沙織さんは思った。しかし、ここからさらにおぞましい地獄に、沙織さんは突き落とされる。
〈 「天井だけ、見てたんです」兄と継母が出ていき、家には実父と2人きり…高校生だった女性の心を殺した“おぞましい性暴力”の一部始終 〉へ続く
(黒川 祥子/Webオリジナル(外部転載))
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