小泉純一郎に「無礼者」と怒声を…中曽根康弘元首相が求めた義理人情
2025年5月1日(木)12時30分 文春オンライン
外交ではレーガン米大統領と蜜月関係を結び、内政では国鉄民営化を実現した中曽根康弘元首相(1918〜2019)。
約5年の在任期間は当時、異例の長さと言われた。元衆議院議員で対立派閥の福田派幹部から中曽根派の後継派閥である志帥会を率いた亀井静香氏が目の当たりにした、中曽根氏の「凄み」とは。
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亀井静香が見た中曽根康弘(耳に残る「無礼者」の怒声)
政治家なら信念の貫徹を強調したくなるものだが、見た目は「威風堂々」なのに、中曽根先生は「風見鶏」と自らを称して憚(はばか)らなかった。

その凄みを肌で感じたのは、1980年のハプニング解散直前だな。田中派にバックアップされた大平首相の退陣論が強まった時のことだ。
俺がいた派閥の領袖、福田赳夫と中曽根氏とは旧群馬三区で「上州戦争」を争うライバルだが、この時だけはチャンスとみて手を組み、野党の不信任案に対し欠席を決定。脱落者が出ないよう会議室にこもる俺たちの前に現れたのが中曽根先生だ。
「勇気ある行動だ」と称賛してくれたから胸が熱くなった。が、それも束の間、側近に連れ出されたあと本会議場に入り、反対票を投じた。田中派支持だ。一同啞然としたよ。
ただ、ここで主流派に転じたことで2年後の総理就任につながったんだから、風を見切っていたんだな。
党人派の民族主義者
風見鶏だったからこそ、5年も政権を続けられた。しかし、日米地位協定の改定には手をつけなかった。ドイツやイタリアはやったのに。
本来は、国家の独立や憲法改正を強調する党人派の系譜を受け継いだ民族主義者で、吉田茂から続く経済優先の官僚政治に対抗意識を持っておられたはず。責めるつもりはないが、画竜点睛を欠いたと思うな。
2003年、小泉純ちゃん(純一郎)が73歳定年制を「例外なく適用する」として公認を出さなかったから、怒ってたよ。中曽根派後継の志帥会を率いていた俺は、純ちゃんが仁義を切りに来たとき、2人が対面する部屋の外にいた。「無礼者」という怒声が耳に残っている。
先生は「終身比例代表1位という党の約束を守れ」と訴えたが、純ちゃんは義理や人情に関心のない新人類。2人とも大統領型と呼ばれたけど、中曽根先生が求めた義理も人情も、純ちゃんには通じなかった。
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このコラムは、いまなお輝き続ける「時代の顔」に迫った『 昭和100年の100人 リーダー篇 』に掲載されています。
〈 「票にもカネにもならぬ仕事に…」元宝塚市長の中川智子が明かす、自民党の重鎮・野中広務が遺した言葉 〉へ続く
(亀井 静香/ノンフィクション出版)