だから私は「街でブラブラ、家でゴロゴロ」よりも苦しさに立ち向かう…91歳・三浦雄一郎が「山に登る」理由

2024年1月29日(月)14時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Phynart Studio

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人がわざわざ苦しい思いをして山に登るのはなぜか。プロスキーヤーで冒険家の三浦雄一郎さんは「苦労や困難を乗り越えて山頂に立てば、視界は一気に開け、その達成感はどんな言葉をもってしても言い表せない。いつの時代でも、山は人間のチャレンジ精神の発露の場であり続ける。プロスキーヤーのぼくが、なぜ70歳を過ぎてからエベレストに登ろうと思ったかというと、『まだ登ったことがなかったから』というのは、あながち冗談ではない」という——。(第4回/全5回)

※本稿は、三浦雄一郎『90歳、それでもぼくは挑戦する。』(三笠書房)の一部を再編集したものです。


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■3歳からはじめたスキーは仕事であり、趣味であり、人生


スキーはわが三浦家の「本業」であり、「家業」のようなものです。滑ることは本来大好きで、そしてスキーはぼくの仕事であり、趣味であり、そして人生でもあります。


ぼくが生まれてはじめてスキーをはいたのは、3歳になったころだったそうです。青森市で生まれたぼくは父に連れられ、いまは世界文化遺産に登録された三内丸山遺跡近くの丘を滑って転んで遊んでいました。


小学校2年生になると、役人だった父の転勤で弘前市に引っ越しました。家は桜で有名な弘前公園の外堀から5分くらいのところにあり、雪が降るとスキーを持ち出して、お城の坂道をくねくね滑って遊ぶのが日課になりました。


父も役所の仕事が終わると、板をかついで坂道をのぼり、公園の電灯を頼りにスキーの練習に励んでいました。そのうちに、父のスキー仲間たちが集まってきて夜遅くまで夢中になって滑ります。


そんな父の姿を憧れの眼差しで見ていた記憶があります。練習が終わると、今度は家に集まってきて、ああでもないこうでもないと、熱っぽいスキー技術論がはじまります。ぼくは眠い目をこすりながら、わかるような、わからないような大人たちのスキー談義に聴き入っていました。


中学生になると、父に連れられて岩木山や八甲田山の山を滑り、スキー選手となってオリンピックを目指しました。


アマチュア選手としては挫折したことで、20代中盤からはプロスキーヤーとして、スキーが仕事になって、現在に至ります。


■「雪の中を自由に滑り回れるようになりたい」


考えてみたら、スキーをはじめてかれこれ90年近くになりますが、大病を患い、8カ月の入院を余儀なくされた87歳の冬以外は一度もスキーをしなかった冬はありません。年がら年中、雪があればスキーで滑るものだと信じて疑いませんでした。


スキーの楽しさは言葉では表せないものがあります。白い雪が降り積もったこの世のものとは思えない景色に、キンと冷えた空気と粉雪の匂い、自分の体ひとつで滑るスピード感……。一度体験したらもう後には戻れない魅力に満ちています。


その中に、「上達する」という喜びがあります。


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ぼくは若いころからスキースクールを主宰してきました。スキーを仕事にするにはスキースクールが早道です。毎日欠かさずスキーをして、それでお金がもらえる。それはスキーヤーにとって夢のような仕事です。


自分のスキー学校には「スノードルフィンスキースクール」と名づけました。


鳥が空で自由に飛ぶように、イルカが海で自由に泳ぐように、雪の中を自由に滑り回れるようになりたい、という思いが込められています。


日本のスキー学校は、どちらかといえば頭でっかちなところがあって、スキーの技術を難しくとらえがちです。


でも、何も難しく考える必要はありません。はじめてスキーをはいた人が、次の日からはみるみる上達していく姿をたくさん目にしてきました。とくに子どもたちの上達ぶりには目を見張らされます。


頭で考える大人と違って、子どもたちは楽しいことが一番ですからね。難しいことを教えなくても、雪の斜面を自由に滑りまくるだけで自然とスキーが上達します。


■70代になってからターンテクニックを研究していた父


ぼくは冬になると毎日のようにスキーをしてきましたが、上達したかったから、いつもどんなときでも、ひとつのターンでもおろそかにしませんでした。


上達すればするほどスキーは楽しくなり、その先にはまた新しい世界が開けます。そうやって何十年もスキーを続けてきたわけです。


いまでも忘れられないのは、70代になってからの父が、毎晩のようにステンマルク選手のビデオを観て、ターンテクニックを研究していた姿です。


ステンマルクというのは、アルペンスキー競技で圧倒的な実績を残した世界的なスキー選手です。


父は、そのステンマルクのスキー技術を解説したビデオを購入し、それこそ毎晩擦り切れるほど観て、自分のスキー上達に役立てようと研究していたのです。


たとえば上体の動きや、ターン弧の描き方など、彼の高度なスキーテクニックを少しでも理解しようとしていました。


繰り返しますが「70代になってから」です。


スキーが上達することは、雪の上で自由になることです。そしてそれは年齢を問わず、スキーヤーにとって最高の喜びなのではないでしょうか。


そして、スキーに限らず、そして年齢に限らず、仕事でも趣味でもなんでも、何かが昨日よりも今日上手になる——。


いかがですか、若いころに夢中になっていたこと、やりたかったことを、またはじめてみませんか。その達成感と喜びは、元気と若々しさ、自信と活力をあなたに与えてくれるはずです。


■エベレスト登頂は「まだ登ったことがなかったから」


山に登る理由はいろいろあると思います。それこそ、100人いたら100通りの答えがあるかもしれません。


かつて、イギリスの登山家ジョージ・マロリーは、


「なぜ、あなたはエベレストに登るのか?」


と記者から問われ、


「そこにエベレストがあるからだ(Because it is there.)」


と答えたという逸話は有名ですね。


それから何十年後に、


「もう何百人も登った山に、なぜ大金をかけてまで挑むのか?」


と質問されたアメリカ登山隊は、答えに窮してこう返したといいます。


「まだ、そこにエベレストがあるからだ(Because it is still there.)」


プロスキーヤーのぼくが、なぜ70歳を過ぎてからエベレストに登ろうと思ったかというと、「まだ登ったことがなかったから」というのも、あながち冗談ではありません。


写真=iStock.com/Vergeles_Andrey
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Vergeles_Andrey

ぼくがエベレストの氷壁をスキーで滑ったのは1970年の春。37歳のときです。そのときは8000mのサウスコルがスタートでした。


以来、エベレストの「頂上」に登りたいという思いは、いつもぼくの夢のどこかにありました。


歳を取るごとに、すり減ったり消えたり、あるいはシャボン玉のように弾けて消えたりする中で、エベレスト登頂は最後まで残った大きな夢でした。


地球のてっぺんエベレストの頂上に立つなんて、究極の道楽だし、それができたらこれくらい贅沢な人生はないわけです。


■ヒマラヤに登って「しまった」と思った瞬間


もともと、ぼくは「滑るため」に山に登っていました。


日本で最初にスキーリフトが誕生したのは終戦後で、進駐軍のために架けられたリフトでした。それまで、つまりぼくが子どものころは、「スキー場」という名前がついていても、雪の斜面を歩いて登って滑るのが普通だったのです。


父に連れられて、はじめて蔵王スキー場に行ったのは小学校四年生のときでしたが、いまのスキー場よりもずっと下にバスの終点があり、そこから温泉街までは荷物とスキーを担いでテクテク歩いたものでした。


樹氷で有名な蔵王のゲレンデには、いまのようにリフトもロープウェイもなく、山スキーのように斜面を登って滑るというスキーでした。


その後、大人になってから八甲田山や岩木山を滑るときも、富士山やエベレスト、南極の最高峰に挑戦したときも、当然ですがリフトはありません。


したがって、ぼくのスキーはいつも登山と一体だったのです。


そして、中高年になってからは、エベレストの頂上に立つことが人生最高の目標になりました。


「これができたら最高だ」と思えることに、スキーも登山も違いはありません。


いくつになっても登ってみたいと思える山は、世界中にまだまだあります。


エベレストのトレーニングでヒマラヤのチョー・オユーという8201mの山に登ったことがありました。そのときは、途中で「しまった!」と思ったんです。


なぜなら、山頂付近は緩やかな斜面が長く続いていて、「なんだ、スキーを持ってくればよかった」と思ったわけで、やはり、ぼくはとことん「スキーヤー」なんだなと思いましたね。


■「頂上に立つ」ことだけがすべてではない


登山の魅力、醍醐味(だいごみ)は、人生にたとえることができます。


歩き出す前の麓(ふもと)では、不安と期待が入り交じります。登るにしたがって苦しくなります。途中でやめたくなることもあるでしょう。


途中でハーハー、ゼイゼイとあまりに呼吸が苦しくなったら、少しペースダウンしたほうがいいですね。でも、立ち止まることなく、どんなにゆっくりでも、一歩一歩でも足を前に出していれば、いつか山頂に到達します。



三浦雄一郎『90歳、それでもぼくは挑戦する。』(三笠書房)

苦労や困難を乗り越えて山頂に立てば、視界は一気に開け、その達成感はどんな言葉をもってしても言い表せません。


いつの時代でも、山は人間のチャレンジ精神の発露の場であり続けるのです。


三浦家の場合、オヤジから孫たちまで親子四代で山とスキーを楽しんできました。山が好きで、山を歩くことが大好き。そこにスキーが加わっているわけです。


それは非常に有意義なことですし、少なくとも、街でブラブラ、家でごろごろしているよりは、はるかにすばらしい時間を過ごしてきたと思います。


いまは中高年で登山を楽しむ方が多いようですが、すばらしいことだと思います。


もっとも、若いころのようにガンガンと登ることはできませんし、途中で山頂を諦めなくちゃいけないこともあるでしょう。


でも、登山というのは「プロセス」を楽しむことが大事で、なにも頂上に立つことだけが目的ではありません。


そうやって、「無理なく安全に、息の長い」山登りを存分に楽しんでいただきたいと「同志」たちにエールを送ります。


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三浦 雄一郎(みうら・ゆういちろう)
プロスキーヤー、冒険家、教育者
1932年、青森県生まれ。北海道大学獣医学部卒業。1964年、イタリア・キロメーターランセに日本人として初めて参加、時速172・084kmの当時の世界新記録樹立。1966年、富士山直滑降、1970年、エベレスト・サウスコル8000m世界最高地点スキー滑降(ギネス認定)を成し遂げる。1985年、世界七大陸最高峰のスキー滑降を完全達成。2003年、エベレスト登頂、当時の世界最高年齢登頂記録(70歳7ヶ月)樹立。2008年、75歳で二度目、2013年、80歳で三度目のエベレスト登頂、世界最高年齢登頂記録更新を果たす。プロスキーヤー・冒険家として、また教育者としてクラーク記念国際高等学校名誉校長を務めるなど、国際的に活躍。主な著書に『諦めない心、ゆだねる勇気 老いに親しむレシピ』(主婦と生活社)、『歩き続ける力』(双葉社)、『私はなぜ80歳でエベレストを目指すのか』(小学館)など多数。
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(プロスキーヤー、冒険家、教育者 三浦 雄一郎)

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