無職夫に「お前の飯はない」と言われ…外資系IT派遣→正社員→大黒柱の33歳女性が夫と義両親から受けた仕打ち

2025年3月15日(土)10時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/JGalione

10歳の時に両親が離婚し、継父との不仲により母との同居を断念して、内縁の妻と暮らす父のもとへ。そこで高校生にして祖母の介護をすることになり、20代で結婚するも夫や義両親から冷遇されて離婚、30代で認知症になった母の介護……。押し寄せる苦難を現在60代の女性が乗り越え、会社でも出世を果たせた理由とは——。(前編/全2回)
この連載では、「シングル介護」の事例を紹介していく。「シングル介護」とは、主に未婚者や、配偶者と離婚や死別した人などが、兄弟姉妹がいるいないにかかわらず、介護を1人で担っているケースを指す。その当事者をめぐる状況は過酷だ。「一線を越えそうになる」という声もたびたび耳にしてきた。なぜそんな危機的状況が生まれるのか。私の取材事例を通じて、社会に警鐘を鳴らしていきたい。

■父親の放蕩で一家離散


関東地方在住の山車依子さん(仮名・60代)は、音楽関係の仕事に就いていた父親と、家事手伝いをしていた母親のもとに生まれ、一人っ子として育った。両親は父親が仕事で訪れた中部地方で出会い、すぐに母親が妊娠したため、父親27歳、母親28歳で結婚。関東にある父親の実家で結婚生活を始めた。


「遊び人の父は家庭を顧みず、母は父方の家業だった靴屋の切り盛りで、毎日注文をとりに駆け回っていました。そのため、私が物心ついた時には、家にいるのはほとんど祖母と二人きりでした。家庭環境がすこし変わっていたせいか、私は内向的でわがままな子どもでした。本ばかり読んで、同年代の子どもよりずいぶんませていて、偏食が酷く、体も弱く、学校も休みがちで、難しい子どもだったと思います」


写真=iStock.com/JGalione
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/JGalione

山車さんは9歳の時に私立の学校の寮に入れられ、週末のみ自宅へ帰るという生活に。


「父は家に帰らず、母も仕事でほとんど不在だったので、学校のことにはまったく干渉されませんでした。家族で過ごした思い出はほぼありません。ただ5歳くらいの頃、私が熱を出して、たまたま家にいた父に、母が私をおんぶさせて、近くの病院に行きました。途中、父の背中で吐いてしまったのですが、それが私にとって、父に“世話”してもらった数少ない記憶です」


ところが山車さん10歳の時に両親が離婚。原因は父親の不倫とそのせいで作った借金だった。借金のせいで父親は自分が育った家を失い、離婚した母親には慰謝料も養育費もなかった。母親は山車さんと2人で暮らし始めたが、基本的に山車さんは、平日は学校の寮、母親は割烹料理屋で働き、休みの日は母娘で過ごした。


離婚から約2年後、41歳の母親は割烹料理屋で知り合った人からの紹介で、不動産系の仕事をする45歳の男性と再婚した。


■振り回される青春時代


継父は厳しく、プライドが高い人だった。そのため反抗期に入った山車さんは、たびたび継父と口論になった。


「継父は、若者文化を目の敵にして、私が好きな音楽や服装をいつもけなしてきました。そしていつも自分が正しいと自慢ばかりしていました」


高2になった時、継父との生活が嫌になった山車さんは、母親と継父の家を飛び出し、実の父親の家に転がり込んだ。


父親は離婚後、元不倫相手だった内縁の妻と自分の母親(山車さんの祖母)の3人で暮らしていた。父親より5歳年上の内縁の妻は、父親が山車さんの母親と出会う前に交際していたが、父親の放蕩ぶりに手を焼いて一度は別れた。しかし山車さんの母親と結婚した後、お互いに思いを断ち切れずに復縁し、不倫関係に陥っていたようだ。


そんな相手との暮らしが手に入ったにもかかわらず、父親は相変わらず遊び歩き、家にはほとんど寄り付かなかった。


山車さんが転がり込んだことでいづらくなったのか、気を遣ったのか、内縁の妻は「自分の母親を介護する」と言って出て行った。


家には80代の祖母が残された。すでに認知症の症状が出始めていた祖母を、高校生の山車さんは、たった1人で介護をすることに。


「祖母は認知症がありましたが、体の不自由はなかったため、お世話が必要なのは食事のサポートとポータブルトイレの始末くらいです。24歳で看取るまで、今にして思えば、私はヤングケアラーでした。しかし、当時の私は祖母について思いやることもなく、最低限のお世話しかせず、いかに寂しい思いをさせたかと思うと償いようもありません……」


■7年後の結婚と離婚


高校を卒業した山車さんは、3年制の芸術系専門学校を出て、画廊に就職。遊び歩くばかりの父親には経済力がなく、学費のほとんどは母親が出していた。


音楽関係の仕事をしていた父親の影響を受け、専門学校時代から音楽好きが集まる場によく顔を出していた山車さんは、そこで趣味が合う男性と出会っていた。


7歳年上のその男性とは、18歳の時に知り合い、19歳の時に交際が始まり、26歳の時に結婚が決まった。結婚式には、母方は母親と親戚。父方は父親と叔父、そして父親が兄弟のように親しくしていた内縁の妻の兄弟が参列。内縁の妻は出席しなかった。


多くの参列者が祝福する中、ただ1人、母親だけが山車さんの夫のことを「頼りない」と不安がっていた。


結婚後、画廊の仕事を辞めた山車さんだったが、同居を始めた義両親に冷遇される上、子どもがなかなか授からなかったため、英語の勉強を始める。28歳で派遣登録し、外資系IT企業で働き始めたところ、その働きぶりが認められ、同じ年に正社員雇用された。


一方、IT系の会社で働いていた夫は、仕事での重責を受け止められず、ストレス過多で倒れて意識不明に。


8時間後には意識を取り戻し、2週間ほどの入院で退院したものの、重いうつ病と診断され、社会復帰は望めない状況だった。


そんな中、正社員雇用された山車さんはどんどん出世していく。家に引きこもる夫を残し、残業や出張も増えていく。気づけば、収入がない夫に代わり、一家の大黒柱になっていた。


ある晩、山車さんが仕事で疲れて帰宅すると、義両親と夫で食卓を囲み、夕食をとっている。山車さんが食卓に着こうとすると、夫に「お前の分はない」と言われた。


写真=iStock.com/Galeh Kholis Pambudi
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Galeh Kholis Pambudi

また、山車さんが風邪をひき、高熱で寝込んだ時、夫に「お粥を作って」と頼むと、「作ったことないから無理」と断られた。


そして山車さんが33歳になった時のこと。夫が突然「日本語学校の教師になりたい」と言い出し、山車さんが反対するも、「もう学校に入学金を払ったから」と言い放つ。


夫は無職になって2年。家計は山車さんが担っている。「そのお金はどうしたの?」と尋ねると、「俺の軍資金」と悪びれる様子もなく答えた。


「考えてみれば、夫には会社を辞めた時に退職金があったはず。でも私は夫の貯金の有無も知りませんでした。彼にお金があったとしたら、それは二人の将来のために使うのだろうと漠然と信じていました。『自分に余力があっても、それは全部自分のためにあるのだな』そう思ったとき、離婚を決めました。私が夫を頼っても、『お前は強いから大丈夫だ。俺には無理』と常に弱い自分を受け入れさせ、私に庇護を求める夫。『私が苦しい時は誰に頼ればいいの?』と聞いた時も、『お前は強いから大丈夫だ。俺は違う』と言った夫。これで絶望しました。引きこもる息子を放置し、私に冷たかった義両親の態度もそれを後押ししました」


7年交際して結婚した7歳年上の夫と、結婚生活7年後に離婚。


元夫と離婚した半年後、共通の友人を介して大手企業に勤める同い年の男性と知り合った。


同じ年、山車さんが「悪性リンパ腫」疑いで胃の大部分を摘出する手術を受け、入院。その時入院から自宅に戻った後まで、きめ細かに身の回りの世話をしてくれたのが、その男性だった。山車さんは38歳の時にその男性と入籍した。


「私は通常の家庭を知らずに育ちました。『経済的に頼れる男性と結婚して子どもをもうけて、主婦としての幸せを手に入れよう』そんな昭和な理想をもっての離婚でした。しかし結果として、今の主人は知り合ってしばらくして大手企業を辞め、様々なベンチャー企業を転々としましたが大成はせず、子どもにも恵まれず、結局、外資勤めの私が大黒柱となったのでした」


山車さんが育った家庭も、しっかり者の母親と経済力のない父親だった。山車さんが前夫と築いた家庭は、山車さんが育った家庭によく似ていた。ただ現在の夫は、山車さんを含め、家族を大切にしている点、夫の両親が温かい人という点が異なる。それは山車さんにとっての唯一の救いだったに違いなかった。


■母親の異変


高2で山車さんが母親の家を出た後、母親と継父は離婚。母親は自分の実家のある中部地方へ帰った。結婚式場で働きながら自分の母親の介護をし、50歳の時に医師の男性と2度目の再婚。55歳の時に死別すると、その後は一人暮らしをしていた。


山車さんは、母親が母方祖母を介護していた頃は、自分もアルバイトや遊び、そして父方祖母の介護と多忙だったため、年に一回ほどしか母親に会っていなかったが、母親が48歳の時に母方祖母が亡くなり、2度目の再婚をしてからは、頻繁に母親と会うようになっていた。


子どもの頃、両親と離れている時間が長かった山車さんは、いつかまた一緒に暮らすのが夢だった。だから40歳になった時、関東に一軒家を購入した。


2010年12月。79歳になって一人暮らしを諦めた母親を呼び寄せた。


母親が山車さんの家に来る日、山車さんは仕事をしながらも、母親から夕方になっても連絡が来ないため心配になった。すると退勤間際、知らない番号からが電話が入る。出ると、東京駅の駅員からだった。母親が切符や財布をなくして困っているという。


山車さんはすぐに会社を出て、母親を迎えに行った。現れた娘の姿を見るなり母親は、


「改札で切符を探したら、切符やお財布や携帯の入ったカバンがないの。そうしたら自分が誰で、どこへ行くのかも何もわからなくなったの」


と泣きそうな顔で言った。


とりあえず母親を家に連れて帰り、持っていたキャリーバックを探すと、貴重品が入ったカバンはキャリーバックの下の方に入っていた。それを見た母親は安心したのか、いつもの様子に戻ったため、山車さんは「一時的にパニックになったのだろう」と流してしまった。


山車さん夫婦は、主に夫が家事を担当し、キッチンの管理をしていた。母親は気ままな一人暮らしが長いため、同居が始まっても山車さんの夫が決めたルールを面倒くさがり、わざと破ることがあった。


「たとえば、『食器や食品を触るときは、石鹸で手を洗ってから』と言ってあるのに、洗ってないくせに涼しい顔で『洗ったよ』と言ったり、ごみの分別を守らない上に、こっそり夜中に捨てに行って、朝カラスに散らかされていたり。母は『うっかりやっちゃった』『気が付かなかった』と言い訳しましたが、私たち夫婦は厳しく叱っていました。しかし、そうした“うっかりミス”が、明らかに増えていったのです。私はうっすら認知症を疑い始めていましたが、母は時にこちらが舌を巻くほどの頭の回転の良さを見せるため、その疑いを何度も打ち消しました」


2011年の夏。山車さん夫婦と母親は3人で沖縄に行った。山車さん夫婦はダイビングをしに海へ、母親は宿の近くの喫茶店へ向かう。夕方、ダイビングを終えて宿に帰ると、フロントで呼び止められた。なんでも、母親は喫茶店で食事をした後に財布がないことに気づいたが、どこに帰っていいかも、自分の名前さえもわからなくなった。そのため、喫茶店の人が母親を営業車に乗せて島中の宿を回り、母親が泊まっている宿を探してくれたのだという。


写真=iStock.com/Michael Zeigler
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Michael Zeigler

それを聞いた山車さんは、翌日お礼に行った。


その後も沖縄滞在中は、夜中にトイレに立った際に部屋の外に出てしまい、自分の部屋がわからなくなって、別の人の部屋に入るなど、母親はこれまでにない不穏な行動を見せていた。


「母は今まで、自分の家と私の家を新幹線で往復するばかりでなく、友だちと一緒はもちろん、1人でも日本中を隈なく旅してきました。土地勘が優れていて、1度通ったところは10年たっても覚えているほどです。そんな母が認知症だなんて、認めたくありませんでした」(以下、後編へ続く)


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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する〜子どもを「所有物扱い」する母親たち〜』(光文社新書)刊行。
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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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