10代の若者たちを「海中の人間爆弾」にした…旧日本海軍が極秘に準備していた「幻の特攻隊」の真実

2025年5月24日(土)9時15分 プレジデント社

伏龍イラスト(写真=unknown United States Navy personnel/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

太平洋戦争末期、劣勢に立った日本軍は反撃の手段として特攻作戦を開始する。ノンフィクション作家・早坂隆さんの『戦争の昭和史 令和に残すべき最後の証言』(ワニブックス【PLUS】新書)より、海軍が準備していた極秘部隊「伏龍隊」の元隊員の証言を紹介する——。(第2回)

■元隊員が語る「幻の特攻部隊」の正体


特殊な潜水服に身を包んだ隊員たちは、暗い海底でひたすら敵の船艇が接近して来るのを待つ。彼らは炸薬(さくやく)の付いた「棒機雷」を手に持っている。これで敵の船艇の船底を下から突き上げることが、彼らに託された軍務である。


当然、この攻撃を実行に移せば、その兵士の肉体は四散する。言わば「人間機雷」。海軍の中でも極秘中の極秘の扱いだった「伏龍隊(ふくりゅうたい)」の実態は、未だあまり知られていない。「幻の特攻部隊」とも称される。


伏龍イラスト(写真=unknown United States Navy personnel/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons


伏龍隊の元隊員である片山惣次郎さんは昭和3(1928)年11月25日、長野県の吾妻村(現・南木曽町)で生まれた。父親は大工だったが、副業として養蚕や農業を営んでいた。片山さんは岐阜県の中津商業学校に進学したが、昭和19(1944)年の春から学徒動員となり、各務原にあった川崎航空機工業の工場で働くことになった。その後、片山さんは海軍飛行予科練習生(予科練)に志願した。


「すでに予科練に入っていた先輩が、学校に来たことがありましてね。その時、金ピカの『七つボタン』が、随分と格好良く見えました」


■胸元に輝く「七つボタン」


予科練の制服には、桜と錨の描かれたボタンが七つ付いていた。この「七つボタン」は「若鷲の歌」の歌詞の中にも見られるように、予科練生のシンボルとして多くの若者の憧憬を集めた。


同年9月、試験に合格した片山さんは、甲種飛行予科練習生(第十五期)として、土浦海軍航空隊に入隊。家を出る際、父親は、「男だでな」と、ぼそりと口にしたという。母親は部屋の隅で涙を拭(ふ)いていた。村の人たちは、軍歌を唄って盛大に送り出してくれた。


土浦海軍航空隊基地跡(1947年)(写真=国土地理院/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

こうして始まった憧れの予科練での生活だったが、そこでの訓練は過酷なものだった。毎日のように教官からビンタされたが、革のスリッパで側頭部を殴られたこともある。その後遺症で、左耳は遠くなった。


モールス信号も学んだが、一字でも間違えると「バッター」と呼ばれる木製の棒で尻の辺りを叩かれた。「軍人精神注入棒」「精神棒」「入魂棒」などとも称されたこのバッターは、当時の海軍内で多用された。


■上官が発した「道具」の意味


それでも片山さんは辛抱と努力を重ね、12月に海軍上等飛行兵となった。


昭和20(1945)年6月10日には、基地が米軍の空襲に見舞われた。片山さんは幸運にも無事だったが、一人の戦友の身体は腹部が割け、腸が飛び出していた。腸の連なりは不気味に青く輝いて見えた。その戦友は日頃から真面目で実直、思いやりのある男だった。彼は程なくして、「頼むぞ」と言って絶命した。この空襲によって、8人の戦友が亡くなった。特攻隊への志願者が募られたのは、この空襲後のことである。


上官は「特攻隊としての任務」と告げたが、「飛行機には乗れない」「海でやる」というような曖昧な表現が多く、詳細はわからなかった。皆、不審に思いつつも手を挙げた。片山さんはこの時、まだ16歳であった。結局、約200人の同期生の内、特攻要員として100人の名前が発表された。片山さんは7人兄弟の長男だったが、その中に含まれていた。


総じて特攻隊には長男が選ばれることは少なかったが、伏龍隊の場合は例外であった。選ばれなかった者たちは、その不満を露わにした。彼らは血書をつくって直談判した。しかし、担当の上官は、「そんなに道具がない」と答えたという。


この「道具」という言葉が何を意味していたのか。片山さんたちはまだ知る由もなかった。すなわち、この単語が指し示していたのは「潜水具」だったのである。


■「潜水服を着るぞ」


7月、片山さんたちは神奈川県横須賀市の久里浜にある海軍対潜学校に移動。2週間ほど同校で過ごした後、その隣にあった工作学校へとさらに移った。そんなある日、ついに片山さんたちに、「潜水服を着るぞ」という命令が告げられた。自分たちの部隊が「伏龍隊」という名前だということも判明した。


「正式に『こういう作戦だ』と発表されたというよりも、日々の訓練の中で少しずつ内容がわかってきたという感じだったと思います」


いよいよ潜水訓練が始まった。上官からは「米軍の本土上陸に備えるための極秘の訓練」と伝えられた。「戦車を積んだ敵の船が東京湾に上陸することを水際で阻止する」ことが伏龍隊の軍務だという話だった。


「首都である東京に米軍の戦車が入ることを、上層部は最も恐れていました。日本軍の武器では、米軍戦車の厚い装甲を破れないということが明らかになっていましたからね。一度、上陸を許してしまったら、もう迎撃は不可能です。ですから、戦車の上陸をとにかく阻止しようということでした」


■粗末な装備


そんな伏龍隊の装備について、片山さんは次のように説明する。


「鉄仮面のようなものを頭に被って、下は潜水服。鉄仮面と潜水服は首の辺りで繋ぎ、4本のナットでガチャンと締めます。背中にはボンベが3本。酸素が入っているのが2本で、1本は空気を浄化するための『空気清浄缶』です」


「かぶと」と呼ばれるヘルメットの内部は、鼻と口の間に境目が設けられていた。言わば、上層と下層の二層構造である。上層部は酸素ボンベと繋がっており、右の腰部に備えられた給気弁をひねると、後頭部にある空気孔から酸素が供給される仕組みとなっていた。


靖国神社の伏龍像(写真=Meckneck/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

ヘルメットの下層部分は、潜水服の内側全体と、背中の空気清浄缶に接続していた。苛性ソーダが入ったブリキ製の空気清浄缶は、炭酸ガスを吸収して汚れた空気を浄化する効果が期待された。つまり、呼吸は基本的に鼻から吸い、口から吐かなければならない。この動作を確実に身に付けることが、伏龍隊の隊員にとって最も重要な課題となった。


この呼吸法を間違えると、炭酸ガス中毒に陥って失神したり、最悪の場合には命を落とす危険性もあった。隊員たちは普段から、この呼吸法を繰り返し練習した。片山さんはこう話す。


「無意識にでもこの呼吸法ができるよう、四六時中、練習していました」


■腰につけられた縄で交信


教官からは、「飯を食う時、眠っている時以外は、常にこの呼吸法をしろ」と言われたという。潜水訓練の際には4〜5人くらいで一班となり、小さな工作船に乗って野比海岸から沖へと出た。あらかじめ決められた海域に着くと、一人が完全装備して海中に入る。潜水服の腰の部分には麻縄が結ばれており、船上と繋がっていた。この縄は命綱であると同時に交信用でもあった。「モールス信号」の要領で縄を引き、船上と海中で交信するのである。


両足には「わらじ」と呼ばれる鉛製の潜水靴を履いた。これは身体を沈めるための「錘(おもり)」の役割も果たした。さらに背中のボンベとのバランスを取るため、腹部にも錘が付けられていた。ボンベなどを含めた総重量は、実に約70キロにも達した。それでも、海の中に入ると強力な浮力が生じた。


身体が浮いてしまう時には、右耳の辺りに備えられた排気弁を使用する。吐いた息は潜水服内部へと流れ込む構造だが、その空気を排気弁から抜くのである。


「排気弁の突起を手でポンポンと押すか、または頭を小刻みに素早く振ると、空気がプップッと泡になって外に排出される仕組みです。そうやって潜水服内の空気の量を調節して、海底を歩けるようバランスを取るのです」


■ただただ無心でした


海底に着いたら、麻縄を引いて船上の隊員に合図を送る。「海底到着」は長く一度、短く二度、引く。つまり「ツー・トン・トン」のリズムである。船上からも縄を使って命令が送られてくる。「前へ行け」「右へ行け」「左へ行け」「浮上」「停止」などの合図である。一回の潜水時間は、30分ほどだったという。


「空気量の調節や、船上との交信など、やることはいろいろとありました。結構、忙しいんです。潜っている間は目の前の作業を一つずつ『無心』でやるだけ。潜水中は『国を護ろう』という気持ちも『つらい』『嫌だ』といった感情も消えてしまう。ただただ『無心』でした」


片山さんが続ける。


「しかし、作業や交信に気を取られていると、鼻から吸って口から吐くという呼吸の基本動作を忘れてしまう。ある時、私もそれで失敗し、呼吸を乱して意識を失ってしまったことがありました」


麻縄による交信が途切れたことに気が付いた船上の戦友たちの手により、片山さんの身体は海中から引き上げられた。意識を失っていた片山さんだが、じきに自分の名前を叫ぶ戦友たちの声を感じた。重たい瞼を開けると、戦友たちの顔が目の前にあった。その瞬間、強烈な息苦しさを感じた。片山さんは九死に一生を得た。戦友の一人がこう言った。


「片山もついにやったな」


■毎日誰かが遭難していた


呼吸法の間違いによる事故は、各班で毎日のように起きていたという。その他にも、ハンダ付けの甘さなどに由来するヘルメットの漏水や、空気清浄缶の破損による事故などが発生した。空気清浄缶が損傷して苛性ソーダが海水と化学反応を起こすと、一気に高温となって沸騰する。これを誤って吸引すれば、気道などに重大な火傷を引き起こし、死に至ることもあった。そんな事態に備えて酢が用意されていたが、その効果を信じる隊員は一人もいなかったという。


『海軍水雷史』には、次のように記述されている。


〈なお当時の関係者たちの言によれば毎日一〜二名は遭難者を出していた由である〉


やがて棒機雷を使用するための演習も始まった。模擬の棒機雷を使って、船底を突き上げる訓練である。陸軍では「棒地雷」を手にして敵の戦車に突撃する作戦がすでに用いられていたが、その「海軍版」と言えるであろう。


■これではまったくの犬死ではないか


同じく伏龍隊の隊員であった門奈鷹一郎は、ある日、棒機雷に関して次のような噂を耳にしたという。


「棒機雷が一発爆発すると、水中50メートル以内の者は全滅する」


それを聞いた時の心境を、門奈は戦後にこう綴っている。


〈私はこの噂を耳にして以来、これから自分が行おうとしていることが急に恐ろしくなった。俺は特攻隊員だから、自分の撃雷攻撃で敵と刺し違えて爆死するのは当然のこととして、気持ちの上では覚悟していたつもりだ。しかし、他人の攻撃で水圧死したり、自分の撃雷が誘爆したりして死ぬことまでは、計算に入っていなかった。これではまったくの犬死ではないか!〉(『海軍伏龍特攻隊』)


伏龍隊は他の隊員と充分な間隔を確保して水中に潜ることになっていたが、海流もある中で実際の激しい戦闘となれば、果たしてそのような距離を保ちながら特攻などできるものだろうか。隊員たちはそんな自問を抱えながら、目の前の訓練に追われた。


■当時の隊員たちの心境


伏龍隊がそんな秘密訓練を重ねていた折、戦争は終わった。結局、伏龍隊が実戦に投入されることはなかった。伏龍隊は訓練のみで、その役目を終えたのである。



早坂隆『戦争の昭和史』(ワニブックス【PLUS】新書)

片山さんは伏龍隊という存在について、こう言葉を連ねる。


「無謀。無鉄砲。もがき。思いつき。その場しのぎ」


自嘲にも似た気配を漂わせながら、切実な言葉が継がれる。


「飛行機がない。弾がない。残っていたのは人だけ。切羽詰まって、もうあの知恵、あの作戦しかなかったのかもしれません。全く愚かな話ですよ」


片山さんが続ける。


「今から思えば『子供だまし』のような作戦ですがね。しかし、やっていた本人たちは、ただただ一途。本当に一途でしたね。今の人たちには笑われてしまうかもしれませんが」


軍の作戦自体には辛辣な片山さんだが、当時の隊員たちの心境については次のように表現する。


「必死なもの。崇高なもの。隊員たちの心中には、そんなものもあったでしょうか。戦争そのものは悪い。当然のことです。しかし、あの潜水服を着て、実際に海に潜った人たちは皆、『利他行』でやっていたんですよ」


「利他行」とは、大乗仏教の言葉で「他人に対する善きはからい」「己の救済よりも、他者を助ける行い」といった意味である。



片山さんは翌9月になって帰郷できることになったが、(生き延びてしまった)という後ろめたい気持ちでいっぱいだった。肩を落とし、人目を避けるようにして故郷の吾妻村へと向かった。予科練に入隊する時には盛大に送り出してくれた地元の人たちも、復員時には冷たかった。誰も「ご苦労さん」とさえ言ってくれなかった。敗戦の惨(みじ)めさをつくづく感じた。


片山さんの背嚢の中には、かつて憧れた「七つボタン」の制服が音もなく仕舞われていた。しかし、家族だけは帰宅を喜んでくれた。父親は、「良かったなあ。お帰り。ご苦労さん」と言ってくれた。その言葉を聞いた片山さんは、思わず咽び泣いたという。


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早坂 隆(はやさか・たかし)
ルポライター
1973年、愛知県生まれ。『昭和十七年の夏 幻の甲子園』で第21回ミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。日本の近代史をライフワークに活躍中。世界各国での体験を基に上梓した「世界のジョーク」の新書シリーズも好評。
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(ルポライター 早坂 隆)

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