山田邦子さんが『徹子の部屋』に登場。母との思い出を語る「毎日新しい体験ばかり!59歳、事務所を退社した理由」

2025年5月22日(木)11時0分 婦人公論.jp


フリーになった山田邦子さんは…(撮影:清水朝子)

2025年5月23日の『徹子の部屋』にタレントの山田邦子さんが登場。2年前に89歳で亡くなった母親との思い出や、自身の終活について語ります。そこで、山田さんが事務所を辞めてフリーへと転身した際の心境を語った『婦人公論』2019年8月27日号のインタビュー記事を再配信します。
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芸歴40年、マルチな才能で活躍し一時代を築き上げた山田邦子さんは、2019年6月末、長年所属していた事務所を辞めて、フリーへと転身した。60歳を目前に新たな一歩を踏み出そうと決めた、その理由とは(構成=平林理恵 撮影=清水朝子)

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事務所の退社は定年退職のようなもの


2019年6月末で39年所属していた事務所を辞めて、フリーランスとしてスタートを切りました。まだ2週間くらいなんですけれど、いろいろなものから解放されて、今、本当に自由です。事務所にはとても感謝しています。タレントスクールを出たわけでもなければ、師匠がいるわけでもない、ポッと出の20歳だった私をよくぞ育ててくださった。

考えてみれば、今回のことは、私の定年退職みたいなものかもしれません。会社勤めをしていた方が、長年所属した場所を去る。59歳ですからね。“定年”はすごくしっくりきました。

リセットしてからのこの2週間は、毎日新しい体験ばかりです。生まれて初めて、請求書というものを書きました。まず近所の文房具屋さんへ請求書用紙を買いに行くところから、です。

店番のおばあさんに「『ノーカーボン』と書いてあるので、カーボン用紙も欲しいのですが」と聞いたら、びっくりした顔で「今の請求書はカーボン用紙なんて必要ありませんよ」って。おばあさんに2枚組で複写する仕組みを丁寧に説明してもらって、なるほど納得。家に帰って書いては破り捨てること5回。ようやく1枚の請求書を完成させることができました。なかなかの達成感でしたよ。(笑)

営業活動もね、すでに2回ほど。仕事を取りにいこうと思いまして。まずは知り合いからということで、お世話になった方に電話をしてアポを取り、喫茶店で待ち合わせました。ひとつはイベントの企画、もうひとつはテレビ番組の企画。

話を聞いていただいた結果、どちらも実現することになったんです。ギャラ交渉も自分でしました。お金の話は難しいものですね。相場がわからないものだから「皆さんどれぐらいなんですか」とか聞いちゃって。先方も「やりにくいなあ」と言っていました。

私が事務所を辞めることを考え始めたのは、実は20年近く前、デビュー20周年を迎えた40歳のときです。それまで次から次へと刺激的な仕事をいただいて、バラエティから歌にドラマにと広がり、私は全力で目の前の仕事をこなしてきました。

それで、20周年にあたってふと振り返ってみたのです。これまで自分は何をやってきたのか、何かを残せたのか、と。そうしたら、命を削るように仕事をしてきたけれど、スケジュールを消化するのに精一杯で、頭の中に何も残っていなかったことに気づいてしまいました。

友達も一人もいませんでした。ピン芸人で、自作自演ですからそもそも一人なんです。もちろん作品をつくるときはチームでお稽古をします。でも楽屋でチームのみんなと一緒にいる時間に、私は次の仕事の台本を読まなくてはならなかった。そりゃ仲も深まりませんよね。お金だけはいただいていたけれど、つまらないことですよ、そんなのは。あの頃からずっと、このままではいけない、何かを変えたいという気持ちを持ち続けていました。事務所には折にふれてそんなことを伝えてきたのです。

私の所属していた太田プロダクションは、関東で一番古い演芸事務所で、かつてはてんぷくトリオやトリオ・スカイラインなど、そうそうたる先輩方が所属していました。現在は、多角化して俳優部もあれば、AKBの子たちが所属するアイドル部もあります。

いろいろな人たちの才能が融合することはいいと思うのです。でも、私の本業はお笑い芸人。仕事で一番のステイタスは、演芸場に出ることと考えてきました。提灯が下がっていて、お客さんが木戸銭を払って入場する演芸場でネタを披露したい。

でもこの願いは何度訴えてもかないませんでした。お金にならない仕事だからなのか、私の希望を前向きに受け止め、そのために動いてくれようとする人はいなかった。

それからもうひとつ、ドラマや映画など演じる仕事が、いつからかなくなってしまったことも、残念に思っていました。年齢を重ねることによって、お母さんだって、おばあさんだって、妖怪だって(笑)演じられるようになるわけで、私としてはしっかりやっていきたい分野でした。

文句を言うぐらいなら自分でやればいい


辞めることを考えるようになってから19年、とにもかくにも続けてきたのは、育てていただいた恩もありましたし、当然感謝もしていたから。そしてどこかで事務所に対して期待をしていたからだと思います。

ここへ来て辞める決断をしたのは、時代が「令和」に変わり、私自身が芸能生活40周年を迎えるこの節目で、なんとか状況を変えなくては、と思ったことが大きいですね。もう誰かのせいにするのも嫌ですし、文句を言うぐらいなら、自分でやればいいのよという思いもあり。とうとう来年60歳になりますし、今がちょうどいいタイミングなのかなって。

それで、2018年末くらいから、本気で辞めさせてくださいとお願いをしてきました。最初は「年が明けたら」という話でしたが、「3月いっぱい」になり、舞台の切れ目が悪いとかで「5月」になり、そして「6月」に。

その間に、身に余る引き止めの言葉をたくさんいただいて、それはとってもありがたかったのですが、欲しかったのは言葉じゃありません。動いてほしかった、私のやっていることに食いついてほしかった──。

ああ、みんな関心がないんだな


40歳から19年間お稽古を続けている長唄で名取となり、「杵屋勝之邦」を襲名することになりました。今年(2019年)の4月27、28日に行われた襲名披露公演は、平成最後の歌舞伎座での公演という特別なもの。そこで私は大トリをつとめることになっていたのですが、事務所のスタッフは誰一人として観に来てはくれませんでした。

ああ、みんな関心がないんだな。長唄にも、それに19年間打ち込んできた私にも。すごく悲しかったけれど、スタッフの仕事のジャンルと違うところで私は活動している、ということだと思うようにしました。

その2週間後くらいに、新宿の末廣亭で、長年続けているバスガイドさんのネタやモノマネをたっぷり盛り込んだ15分間の高座をやらせていただく機会を得ました。私の前が桂米丸さん、後ろが三遊亭好楽さん、大好きな演芸場でこんな素晴らしい先輩たちといっしょに。嬉しくて気合いを入れて準備をしました。

実はこの仕事は、デビュー当時の伝手をたどって自分で取ってきたもの。だからでしょうか、当日、マネージャーは現場に来ませんでした。これはショックだったな。長唄は関心がなくてもしかたがないと思えたけれども、演芸は関心がないではすまされません。

そして極めつきとなったのが、5月の後半から始まった40周年記念公演『山田邦子の門』です。これも事務所とは関係なく、長年のつきあいのあるプロデューサーがお祝いとして考えてくださった企画でした。

そのとき、ある酒造会社さんが、関係者のみなさんに差し上げるようにと、私の顔のラベルを貼った特別なお酒を100本ぐらい用意してくださっていました。楽屋のたくさんのいただきものの中にあったのです。それなのにその存在に終演まで私もスタッフも誰も気付かず、千秋楽が終わってから私の自宅に転送されてきて、開けてびっくり。毎日事務所の人は来ていたけれど、私が自分で開けなかったこともいけなかったでしょうね。

これが40年かけて私が作り上げてしまった仕事のチームだったんだなと思いました。どこかで何かがずれていたのかもしれません。だから今、この公演にたずさわった方みなさんに、お会いするたびにお酒をお渡ししています。

神様からの最大級のプレゼント


というわけで、晴れて6月末日をもって事務所を辞めることになったのです。「大きな事務所を離れて不安はありませんか?」と聞かれるのですが、全然ないです。それはひとつには目の前に仕事があるからだと思う。

レギュラーでやってきた仕事は、考えてみたら、どれも自分で取ってきた仕事ばかりでしたが、事務所を辞めたとなれば打ち切りも十分考えられました。でも、プロデューサーにお詫びに伺うと、どの方も「邦ちゃんと仕事をしているんです」と言ってくださり、仕事は減らなかったのです。

もうひとつは、友達に恵まれたこと。ピン芸で「友達なんかいらない」と言い放ち、実際、最初の20年間はひとりぼっちで孤独だった私ですが、40歳からの19年間に神様から友達という最大級のプレゼントをいただきました。人間関係を作るには、やはり相手のために時間を使うことが必要ですね。一人で突っ走るよりもよほど豊かな時間があることを、友達に教えてもらいました。

また、2007年に乳がんになり、免疫力を上げるには歌がいいとお医者様に勧められて、がん撲滅を目指し『スター混声合唱団』を立ち上げました。そこでも友人たちに助けられています。病院で患者さんと歌ったり、海外公演をしたり、被災地をまわったり。

事務局がないので、運営はすべて自分で行っています。チャリティということもあり、誰かに任せることなく、タレントさんたちへの声がけも私が直接お願いするのです。出演のオファーが来ると、主催者の方にも会いに行きますよ。ホールの様子を見たり、細かい要望を伝えたり。そういうことを何年も続けてきたので、これはフリーになってもやっていけそうだなと。

家族には心から本当に感謝している


これからやりたいことは、演芸の仕事はもちろん、長らくお休み状態だった演じる仕事にもう一度取り組みたいですね。そしてもうひとつは、みんなが集まれる「場所」をつくること。

以前から、月に1回、芸人としての収入では食べていけない後輩を集めて、ネタや歌を披露する「会」を開いています。お客さんを入れて、入場料のあがりをその子たちにアルバイト料として支払うんですが、後輩の子はもちろん、お客さんもみなすごく喜んでくれます。これを常設の形で開催できる「場所」として確保して、いつも開けるようにしたい。気軽に集まれる、サロンみたいなものをつくれたらいいですね。

家庭の話題が一切ないですって? 食べるも寝るも生きるも私のすべてはネタのためになっていて、家族には相当迷惑をかけています。よくこの悪ふざけについてきてくれたと、心から、本当に感謝しています。家族には、これ以上望むことはありません。あ、ひとつだけありました、望みが。それはね、未亡人になること。(笑)

私の母も今では未亡人ですが、父が亡くなってすぐの頃は「お父さんが待ってるから私もすぐ逝くよ」なんてシュンとしていたのが、みるみる元気になって、今は毎日すごく楽しそう。母の友達もみな未亡人ですが、イキイキしています。あれを見ていると、未亡人を経験しない手はないな、と。

ところが、夫がね、近頃食べ物には気をつかうわ、運動は欠かさないわで、なんだか長生きしそうなんですよ。長寿の家系だし。なので、本当になれるかどうか……。ちょっと微妙な雲行きであります。(笑)

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