冨安、遠藤、堂安らJクラブユースから大出世した選手5選。理由を辿る
2025年5月23日(金)18時0分 FOOTBALL TRIBE

日本サッカー界における育成年代の指導方法は、世界的には珍しいモデルケースだ。現在欧州で活躍する日本人選手は、高校サッカー部やJリーグクラブのユースから巣立っている他、元日本代表MF香川真司(FCみやぎバルセロナ出身)のような街クラブからの例もある。高校や大学経由でプロ入りするケースは韓国や米国でも見られるが、欧州や南米での育成は基本的に「プロクラブのユースチーム」一択だ。
かつて日本代表選手のほとんどは高校サッカー部出身者だったが、現在はJクラブユース出身者の数の方が多い。今後この傾向はますます強くなっていくことが予想されるが、現在の日本代表は、戦術をベースに個人技を育てるJクラブユースと、“負ければ終わり”の環境下で勝負強さを身に付けられる高校サッカー、各々のタイプが存在する多様性を含んでいる。
しかしながら、大人数の部員を抱え“人海戦術”で強化を図る高校サッカー部より、少数精鋭で選手を育てるJクラブユースの方が、「選手育成」の面で一日の長があることは明らかだろう。ここでは、Jクラブの下部組織から羽ばたき、日本サッカー史に名を刻んだ5選手を挙げ、その理由や成長の足跡を振り返りたい。

冨安健洋(アーセナル/2014-2015アビスパ福岡ユース)
現在プレミアリーグのアーセナルに所属する日本代表DF冨安健洋は、11歳時にアビスパ福岡のスクールに入団し、U-12、U-15(ジュニアユース)、U-18(ユース)で腕を磨いた。
2015年の高校2年時にトップチームに2種登録され、同年10月の天皇杯3回戦の町田ゼルビア戦で公式戦デビュー。2016シーズンを前に当時J2のトップチームとプロ契約し、ユースを“卒業”した。当初は運動量が売りの守備的MFだったが、2017シーズンにはセンターバックとしてレギュラーポジションを獲得。同年3月には早くもプロ初得点も記録した。
2018年1月、19歳の若さでベルギー1部のシント=トロイデンVVに移籍。福岡に億単位の移籍金を残しただけではなく、その後、セリエAボローニャに移籍の際は推定1,000万ユーロ(約12億円)、アーセナルに移籍の際には推定1,980万ポンド(約30億円)の移籍金が発生した。
この3度にわたる移籍によって、移籍金の中から連帯貢献金が発生し、ボローニャ移籍時に推定2,750万円、アーセナル移籍時に約1億5,000万円が福岡に支払われた。もちろん本人の努力の賜物だが、たった1人の選手を育て海外移籍に繋げただけで、福岡に移籍金と連帯貢献金合わせて推定2億〜3億円の収入をもたらしたことになる。これ以上ない“孝行息子”と言えるだろう。
冨安の大出世によっては、従前は東福岡高校や東海大福岡高校に流れていた有望選手が福岡ユースに集まるようになり、昨2024シーズンはプレーオフの末、高円宮杯U-18プレミアリーグWESTへの昇格を決めた。
今2025シーズン前には、FW前田一翔とFWサニブラウン・アブデル・ハナンがトップチームに昇格しただけではなく、クラブ財政も6期ぶりに黒字に転換した福岡。育成に力を入れたことで増収に繋がる好例を示した。

遠藤航(リバプール/2008-2010湘南ベルマーレユース)
今2024/25シーズン、リバプールで“クローザー”として存在感を示し、プレミアリーグ優勝に貢献した日本代表MF遠藤航。ブンデスリーガのシュツットガルトのレギュラーとして活躍していたが、リバプール加入当初英国メディアやサポーターは「エンドウって誰?」という反応だった。そうしたネガティブな評価をプレーで覆した格好だ。
そんな遠藤は横浜出身で幼少期は横浜F・マリノスのファンだったが、同クラブのセレクションに落選。代わりに中学3年時に湘南ベルマーレユースからオファーを受け2008年に加入。頭角を現すと、2010年には2種登録としてJリーグデビューを果たした。
2011年、湘南のトップチームに昇格。守備的MFやセンターバックとしてプレーし、2014シーズンにはJ2優勝に貢献した。湘南では5シーズンを過ごし、フィジカルや経験を積んだ。この頃から早くもデュエルでの強さを示していた。
2016シーズンを前に、浦和レッズに移籍。2017年にはAFCチャンピオンズリーグ(ACL)優勝を経験している。また、同年には日本代表に初選出され、2018年のロシアW杯メンバーにも名を連ねた。
2018年、ベルギーのシント=トロイデンVVに完全移籍。初の欧州挑戦だったが、ボール奪取能力を発揮し主力として活躍し、5大リーグへの足がかりを作る。
そして2019年にシュツットガルトに期限付き移籍し、2020年に完全移籍に移行。主将も務め、2年連続でブンデスリーガのデュエル勝利数1位を記録するなど、守備的MFとして高い評価を受ける。2021/22シーズンには自らのゴールでチームの1部残留に貢献した。
2023年8月、30歳で現在のリバプールへ。約29億円の移籍金で4年契約を結ぶ。背番号「3」を付け、当時のユルゲン・クロップ監督から守備的MFのレギュラー候補として期待された。移籍当初は適応に苦しんだが徐々に信頼を獲得し、2023/24シーズンにカラバオ杯優勝、2024/25シーズンにはリーグ優勝に貢献。途中出場で右サイドバックとしてもプレーし、ポリバレントさも披露した。
遠藤の場合、一気にトップクラブを目指さず、湘南、浦和、ベルギー、ドイツと段階的にキャリアを積んだ。この現実的な選択が、プレミアリーグへの適応を可能にした側面があるだろう。また、1対1の強さや、守備ならば様々なポジションをこなせる柔軟性も評価された。
リバプール移籍当初の批判や、控え扱いの状況でも腐らず、チームの戦術に適応しようと努力した遠藤。リバプールOBのハビエル・マスチェラーノ氏を参考に、自身のプレーを磨いたという。2023年には日本代表の主将に任命されリーダーシップを発揮。国際舞台での経験がクラブでの信頼にも繋がっている。
遠藤の出世は、段階的なキャリア構築のみならず、守備力とユーティリティ性の高さ、そして批判を跳ね返すメンタルの強さによるものが大きい。ユースも含めた湘南時代に培った基礎が、世界的名門クラブでの成功の土台となっているのだろう。

堂安律(フライブルク/2014-2016ガンバ大阪ユース)
今2024/25シーズン、ブンデスリーガのフライブルクでレギュラーとして10得点を挙げ、チームをヨーロッパリーグ(EL)出場権を得る5位に導いた日本代表MF堂安律。
兵庫県尼崎市出身の堂安は少年時代、ヴィッセル神戸のスクールに通っていた。中学進学時にガンバ大阪、セレッソ大阪、ヴィッセル神戸、名古屋グランパスのジュニアユースからオファーを受け、G大阪を選択している。
2014年にユース昇格し、2015年には高円宮杯プレミアリーグWEST優勝に貢献。同年、16歳ながら2種登録選手としてトップチームで公式戦デビュー(AFCチャンピオンズリーグ・FCソウル戦)を果たし、注目を集めた。
2016年に飛び級でトップチーム昇格。当時、J3に参戦していたG大阪U-23で21試合10得点を記録し、別格の存在感を示すと、2017年にはACLプレーオフに出場。攻撃的MFや右サイドでドリブルと得点力を発揮し、2016年にJリーグ初得点を記録した。
2017シーズン途中、オランダのフローニンゲンに期限付き移籍し、2018年に3年契約での完全移籍に移行。初年度から公式戦29試合9得点を記録し、元オランダ代表MFアリエン・ロッベンの10代時の得点数を上回る活躍を見せた。オランダリーグでの適応力と攻撃センスが評価され、欧州での足がかりを築いた。
2019/20シーズン、オランダの名門PSVアイントホーフェンに5年契約で移籍。加入当初は主力として活躍したが徐々に出場機会が減り、活躍の場を求めてブンデスリーガのアルミニア・ビーレフェルトに期限付き移籍。2021/22シーズンにPSV復帰後、KNVBカップ優勝に貢献した。PSVでは欧州トップクラブでの経験を積み、市場価値を高めた。
2022/23シーズン、現在のフライブルクに完全移籍。右ウイングとしてレギュラーを確保し、同シーズンはリーグ戦33試合7得点、ELでも活躍した。翌2023/24シーズンも安定したパフォーマンスでチームの主力となり、2024年にはJPFAアワードのベストイレブンに選出。フライブルクでは突破力と得点力が評価され、野心的なクラブの哲学とも合致し、チームの顔となった。
そんな堂安には、現在UEFAチャンピオンズリーグ(CL)出場権を得たフランクフルトやドルトムントが獲得に興味を示していると言われ、具体的な移籍金の金額も報じられ始めた。これに対し、CL出場権を逃したものの2027シーズンまで契約を残している堂安流出を阻止したいフライブルクのジュリアン・シュスター監督は、フロントの「背番号10を用意」という引き留めプランを後押ししているという。
堂安の場合、16歳という若さでトップチームデビューしたことと、J3での大量得点が自信を育み、海外挑戦の基盤を作った。また、オランダ(フローニンゲン、PSV)からドイツ(ビーレフェルト、フライブルク)という段階的なステップアップが、欧州での適応を成功させた。
小学4年時にC大阪のセレクションに落選した悔しさをバネに成長し、中学進学時にオファーしてきたC大阪に対し「秒で断った」というメンタルも堂安の持ち味だ。育成には定評があるG大阪の指導力が、彼の個性を伸ばした側面も無視できないだろう。
G大阪での早期デビューから、J3での実戦経験、フローニンゲンでのブレイク、PSVでのトップクラブ経験を経て、フライブルクでブンデスリーガの主力選手に成長した堂安。2022年カタールW杯での活躍も含め、G大阪ユース出身者として世界で戦える選手の象徴となっている。

三笘薫(ブライトン・アンド・ホーブ・アルビオン/2013-2015川崎フロンターレU-18)
プレミアリーグ、ブライトン・アンド・ホーブ・アルビオンで活躍するーする日本代表MF三笘薫は、鷺沼サッカー少年団でサッカーを始めた。ちなみに1学年上には日本代表MF田中碧(リーズ・ユナイテッド)がおり、ともに川崎フロンターレの下部組織に加入する。
三笘はU-12からU-18まで一貫して川崎の下部組織で育ち、2016年にはU-18で背番号10番を背負い、クラブユース選手権で活躍。スピードとドリブルの武器が注目され、トップチーム昇格が確実視されていたが、学業との両立を目指し筑波大学に進学した。
一見、遠回りにも思える決断にも思えるが、これがフィジカル強化と戦術理解を深めることに繋がった。筑波大サッカー部では1年生からレギュラーとして活躍し、2017年天皇杯ではJ1クラブを破るジャイアントキリングを演出。ユニバーシアードでは日本代表として金メダルを獲得した。2018年と2019年には関東大学リーグ1部でアシスト王にも輝いた。
2019年に川崎の特別指定選手としてJリーグデビューを果たしていたが、筑波大卒業後の2020年、川崎に正式加入。即レギュラーとなり、新人ながら13得点12アシストでJリーグベストイレブンに選出された。川崎では左ウイングとして爆発的なドリブルと得点力を発揮し、2020シーズンと2021シーズンのJ1連覇に貢献。わずか2年で日本人トップのアタッカーとしての評価を確立した。
2021年8月、現在のブライトンに移籍金約4億円で渡欧後、ベルギーのロイヤル・ユニオン・サン=ジロワーズに期限付き移籍。ベルギーリーグで7得点4アシストを記録し、その実力を証明した。類まれなるドリブルで相手DFを翻弄するスタイルが評価され、プレミアリーグへの扉を開いた。
2022年夏、保有権を持っていたブライトンに加入。2022/23シーズンはプレミアリーグで7得点6アシストを記録し、特に2023年1月のFAカップ、リバプール戦での劇的な決勝ゴールで注目を集めた。
2023/24シーズンもレギュラーとして活躍し、ブライトンのクラブ史上最高のリーグ6位に貢献。2024年にはケガで出遅れたものの、現在も左ウイングの主力としてプレー。ドリブル成功率や1対1の勝率でリーグトップクラスを維持している。
日本代表デビューは2020年11月。2022年のカタールW杯スペイン代表戦では、ゴールラインぎりぎりからボールを折り返し、MF田中碧の逆転ゴールに繋げる「三笘の1ミリ」を演じて話題に。日本のベスト16進出に貢献した。
トップ昇格を蹴って大学に進学するという異例の経歴を辿った三笘だが、その決断がフィジカルと戦術理解の強化に繋がり、プロ入り後の即戦力化を可能にしたと言えるだろう。
川崎の下部組織時代から磨いた1対1の強さや独特のドリブル技術が、Jリーグ、ベルギー、プレミアリーグでも通用。データ分析でもドリブル成功数でリーグ上位を記録している。その源はベルギーでの1シーズンで、プレミアリーグへのスムーズな適応を助けた。
筑波大でのフィジカル強化と戦術理解、川崎でのJ1連覇、ベルギーでの欧州デビューを経て、世界最高峰リーグのスター選手に成長した三笘。大学進学と、段階的な海外挑戦が成功の鍵となった。W杯やプレミアリーグでの活躍により、川崎下部組織出身選手として世界に強烈なインパクトを残す存在となった。

市川大祐(2016年引退/1996-1998清水エスパルスユース)
最後に1人だけ、引退した選手、清水エスパルスユース出身のDF市川大祐を紹介したい。まだユース選手育成のためのメソッドが発展途上だった時代だ。
1998年3月21日に行われた日本平球技場でのJ1開幕戦、北海道コンサドーレ札幌戦(4-1)にユース所属ながら右サイドバックとして先発出場した市川。当然ながら選手紹介の際には、名鑑にも掲載されていない17歳の高校2年生の大抜擢にゴール裏のサポーターからもどよめきが起きた。
前年12月、天皇杯2回戦の福島FC戦(3-0)で後半40分から途中出場し、公式戦デビューを果たしていたが、当時のオズワルド・アルディレス監督の英断によるまさかの開幕スタメンは、清水サポーターをもザワつかかせたのだ。
さらに日本中のサッカーファンを驚かせたのが、その直後に岡田武史監督率いる日本代表に選出され、同年4月1日に敵地ソウルで行われた韓国代表戦(1-2)で先発フル出場。わずか10日間で、ユース所属の高校生が代表スタメンにまで上り詰めてしまったのだから「シンデレラストーリー」と言うほかない。後日、岡田監督はユース所属の市川の将来性に注目し、ウォッチし続けていたと語っている。
1993年に発足した清水のジュニアユース1期生から代表選手が輩出されたことによって、「育成の清水」を印象付けた。しかし、コンスタントにユースからトップチームに選手を昇格させた一方、代表にまで選出されるのは、現在主将を務めるFW北川航也(2015年トップチーム昇格)まで現れていない。
市川は1998年フランスW杯の最終選考を兼ねたスイス合宿に参加したものの、FW三浦知良(現アトレチコ鈴鹿)、MF北澤豪(2002年引退)とともに落選。しかし市川だけは帰国せずにチームに帯同して裏方仕事に徹し、代表イレブンを陰で支えた。
そして4年後、フィリップ・トルシエ監督が率いる2002年の日韓W杯では代表に選出され、初戦のベルギー代表戦(2-2)に先発出場、決勝トーナメント1回戦のトルコ代表戦(0-1)で敗れるまで4試合中3試合に出場した。
大会後、リーグ・アンのストラスブールにテストを兼ねた練習参加に臨んだが、欧州移籍は叶わなかった。清水との契約が残っていた(移籍金が発生する)のがその理由だったと言われている。W杯に出場したとはいえ、まだまだ日本人選手への評価はその程度だったことを物語っている。
清水退団後、J1ヴァンフォーレ甲府(2011)、J2水戸ホーリーホック(2012)、JFL藤枝MYFC(2013-2014)、四国リーグFC今治(2015)、JFLヴァンラーレ八戸(2016)と渡り歩き現役引退した市川。日本国内のあらゆるカテゴリーでプレーした経験を生かし、現在、清水のコーチとして秋葉忠弘監督をサポートしている。