「主力は毎日点滴」「沿道に遺影」山本浩二さんが語る75年広島初優勝秘話…巨人が恐れた男たち「喜」

2025年5月27日(火)6時0分 スポーツ報知

75年、広島が初優勝し祝勝会で乾杯する(左から)古葉監督、山本、衣笠

 巨人のライバルだった名選手の連続インタビュー「巨人が恐れた男たち」。第5回は“ミスター赤ヘル”こと元広島監督の山本浩二さん(78)が「喜怒哀楽」を語る。1970〜80年代の広島黄金時代に絶対的な4番打者として君臨し、通算536本塁打は歴代4位。鉄人・衣笠祥雄との“YK砲”は脅威で、巨人戦通算100本塁打の大台は2人だけだ。現役18年間の濃密な記憶を掘り起こした。(取材・構成=太田 倫)

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 野球人生の分岐点は、1975年のカープの初優勝だね。ホームラン王とか、個人の喜びももちろんある。でもチームみんなで勝ち取った優勝は、それ以上のものなんよ。プロ7年目、29歳になる年やった。冷静に周りが見え始め、どっしりとプレーできるようになった。いいものを味わって、また優勝したいという思いが、後の支えになった。

 毎年「コイのぼりの季節まで」って言われたカープが、5月の沖縄遠征で首位に立って、前半戦を終えてもまだ3位。そして、ひとつの転機が7月のオールスターや。第1戦の甲子園で、衣笠祥雄と2打席連続のアベックアーチ。長嶋茂雄さんが三塁コーチャーやった。これはもう…信じられない気持ちよ。新聞の見出しに「赤ヘル旋風」と躍った。さらに勢いづいたね。

 わしは前の年のオフに登録名を本名の「浩司」から「浩二」に変えた。その方が勝負事にはいい、と勧められたからや。「赤ヘル」になったのも75年から。最初は恥ずかしかったな。オープン戦で相手のパ・リーグの選手から「なんやそれは!」ってからかわれた。でも「赤」って何か燃えるもんがあるんや。結果的には変えてよかったよ。

 8月上旬に首位を奪い返して「ひょっとするかも…」と思い始めたら、プレッシャーよ。広島の夏はとんでもなく暑いし、心も体も疲れるなんてもんじゃない。主力組は毎日のように点滴を打って試合に出ていた。そうやって勝ち取った優勝やから、感激もひときわ大きかった。優勝パレードには30万人。沿道には遺影を持った人たちもいて、涙を流して喜んでくれた。

 68年のドラフト1位で入団した頃は、巨人のV9(65〜73年)真っただ中やった。あのONがいて、周りにもすごい選手がいっぱいいた。カープはまだ万年Bクラス。あの頃は巨人と戦うと、借りてきた猫みたいになっていた。勝てるわけないと思ったよな。巨人戦はテレビにも映るし、活躍すれば名前が売れる。やっぱり特別やったよ。

 若手時代、大きな自信をつけてくれたのも巨人戦や。あれはプロ2年目、70年9月11日の後楽園。4—3で勝っていて9回裏、1死三塁でランナーは王貞治さん。6番の末次利光さんが右中間に打ち上げた。わしは中堅からノーバウンドでバックホームして、タッチアップした王さんを刺した。あのゲームセットの瞬間は気持ちよかったねえ…。

 ところで当時、「11(イレブン)PM」って深夜番組があったやろ【注1】。その中のスポーツニュースで、司会の大橋巨泉さんが「広島の井上弘昭ってのは、すごい肩してますね」って、先輩と間違えとんねん! これは悔しかったね(笑)。

 【注1】65年から90年まで日本テレビ系列で放送されていた深夜帯のワイドショー。社会問題からお色気ネタまで幅広いジャンルを扱う人気番組だった。

 ◆1975年のオールスター第1戦 全セ8—0全パ(7月19日、甲子園)

 【VTR】全セの与那嶺要監督(中日)は3番に山本を抜てき。4番・王、5番・田淵、6番・衣笠と中軸を組ませた。初回、山本が全パ先発の太田幸(近鉄)から左翼ポール際へ2ラン。衣笠も左翼へソロ。2回は阪急・山田から山本が左越え3ラン、3回に衣笠も再び左越えソロ。山本は3安打5打点でMVP。

 ◆山本 浩二(やまもと・こうじ)1946年10月25日、広島市生まれ。78歳。廿日市高を経て進学した法大ではスラッガーとして田淵幸一、富田勝と「法政三羽ガラス」と呼ばれ、68年のドラフト1位で広島入団。18年間で本塁打王4回、最優秀選手2回などタイトル多数。86年に引退後は広島監督を計2回、通算10年務め、91年にはリーグ優勝。2008年に殿堂入り。13年WBCでは日本代表監督として4強入り。右投右打。

スポーツ報知

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