『べらぼう』田沼意次は賄賂政治家ではない?老中が失脚した意外な理由、六千石の旗本から大名へ、家治に重用される
2025年1月13日(月)6時0分 JBpress
(鷹橋忍:ライター)
今回は、大河ドラマ『べらぼう』において、渡辺謙が演じる田沼意次を取り上げたい。
父・田沼意行と八代将軍・徳川吉宗
田沼意次は享保4年(1719)に、江戸で生まれた。
寛延3年(1750)生まれの蔦重よりも、31歳も年長となる。
父は旗本・田沼意行(おきゆき/『寛政重修諸家譜』では「もとゆき」)、母は紀州藩士・田代七右衛門高近(たかちか)の養女である。
田沼家は、意次の祖父・田沼義房(よしふさ)まで三代にわたり、代々の紀州藩主に仕えていたが、義房は後に、病のため仕官を辞したという(『寛政重修諸家譜』)。
義房の子である意行は宝永元年(1704)、後に八代将軍となる徳川吉宗に召し出され、紀州藩士となった。
意行は、吉宗から厚い信任を得た。宝永2年(1705)に吉宗が紀州藩主の座に就くと奥小姓に任じられ、享保元年(1716)に吉宗が八代将軍となり江戸城に入ると、江戸に召されて、将軍の小姓を務めている。
以後、田沼家は幕臣で旗本の身分となったという(藤田覚『田沼意次 御不審を蒙ること、身に覚えなし』)。
九代将軍・徳川家重の小姓になる
意次は享保19年(1734)3月、16歳の時、次期将軍に決定している徳川家重(吉宗の長男)の小姓の一人に取り立てられ、家重が暮らす江戸城西丸に入っている。
父・意行は同年8月、小納戸頭取(こなんどとうどり/将軍の身辺の雑務を担う小納戸の長)に昇進するも、同年12月18日、47歳でこの世を去った。
翌享保20年(1735)3月、意次は17歳で遺跡を継いだ(知行は亡父と同じ六百石)。
元文2年(1737)には、従五位下に叙され、亡父と同じく主殿頭(とのものかみ)となっている。
意次は家重に重用され、めざましく出世していく。
六千石の旗本から大名へ
延享2年(1745)11月、家重が九代将軍に就任して本丸へ移ると、意次も本丸勤めとなり、引き続き小姓を務めた。
翌延享3年(1746)7月には小姓頭取(小姓のトップ)に昇進。
延享4年(1747)9月には小姓組番頭格の御側御用取次(おそばごようとりつぎ)見習に登用され、寛延元年(1748)閏10月には、小姓組番頭に昇格。御側御用取次見習と兼務となり、知行二千石の旗本となる。
寛延2年(1749)には、後妻である黒沢定紀(さだのり)の娘との間に、嫡男・宮沢氷魚が演じる田沼意知が誕生した。翌寛延3年(1750)には、蔦屋重三郎が吉原で生まれている。
宝暦元年(1751)7月、意次は御側御用取次に昇格した。この年、徳川吉宗が68歳で没している。
宝暦8年(1758)9月には、遠江国相良藩(静岡県牧之原市)一万石の大名となった。
意次は六千石の旗本から大名へと、異例の大出世を果たしたのだ。意次は40歳になっていた。
十代将軍・徳川家治にも重用される
宝暦10年(1760)5月、九代将軍・家重は大病により引退し、同年9月、家重の嫡男・眞島秀和が演じる徳川家治が十代将軍となった。
通例では将軍が代替わりすると、前将軍の側近団は職を免じられる。
ところが、意次だけは引き続き、新将軍となった家治の御側御用取次を務めるように命じられた。
異例の事態であるが、それは「田沼意次は正直で律儀者だから、引き立てて召し使うように」という家重の指示(『徳川実紀』第十篇)を、家治が守ったからだともいわれる。
家重は宝暦11年(1761)6月に没したが、意次は家治からも重用され、よりいっそうの出世を重ねていく。
老中に上りつめる
意次は明和4年(1767)7月、側用人(そばようにん)に昇進する。
側用人の本来の主な職務は将軍に近侍し、将軍の命令を幕政のトップである老中へ、老中からの上申を将軍へと、それぞれに伝え、両者の間を取り次ぐことである。五代将軍・徳川綱吉の時に新設された。
位階も従四位下に上がり、二万石に加増され、相良に築城することも認められた。意次はついに、城主(城持大名)となったのだ。
当時、半数近くの大名は、城主ではなかった(安藤優一郎『田沼意次 汚名を着せられた改革者』)。
さらに、明和6年(1769)8月には、老中に準ずる老中格に昇進し、明和9年(1772)1月には老中に昇に上りつめている。
意次は老中になってからも、命じられて、側用人としての職務も続けた。
幕政を担う老中と、将軍の意思を伝える御用人を事実上、兼任することで、意次は絶大な権力を手にする。
また、将軍の一門や、幕府の要職にあった大名や旗本などと姻戚関係を結んで、権力の基盤を固めていった。
天明3年(1783)11月には、意次の嫡男・田沼意知が老中に次ぐ地位である若年寄に登用された。
父が老中で、その子が若年寄の座に就くというのは、異例のことである。
父子で幕政の実権を握り、意次の権勢はまさに絶頂を迎えた。意次は65歳、意知は35歳の時のことである。
田沼時代
意次が側用人の座に就いた明和4年頃から天明6年(1787)までの約20年間は、意次が幕政を主導したことにより、「田沼時代」と称される。
意次は田沼時代、幕府の財政難を解消するために、下総国(千葉県北部と茨城県南西部)の印旛沼干拓計画、蝦夷地(北海道)の開発計画、ロシアとの貿易計画、長崎貿易の拡大、株仲間の積極的な公認など、大規模な開発や金融政策を打ち出していく。
意次による一連の施策は歳入を上げた。
だが、幕府は民間からの献策を積極的に取り入れたため、そこに利権を感じ取った商人たちが頻繁に賄賂を贈り、政治の腐敗は進んだ。
しかし、商人が関連部局の役人に賄賂を贈るのは、田沼時代に始まったことでなく、以前から、日常的に行なわれていたという(以上、安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』)。
やがて、田沼時代は意外な形で終焉を迎えることになる。
意次、嫡男を失う
天明4年(1784)3月24日、田沼意知が江戸城中にて、知行五千石の旗本・矢本悠馬が演じる佐野政言(まさこと)に斬りつけられるという刃傷事件が勃発する。
佐野政言は捕えられたが、事件から2日後の3月26日、意知は傷が原因で、36歳で命を落としてしまった(藤田覚『田沼意次 御不審を蒙ること、身に覚えなし』)。
意次は後継を失ったのだ。
同年4月3日、佐野政言は切腹となり、浅草の徳本寺に葬られた。
この年は大飢饉で、米の価格も高騰。人々は苦しみ、田沼政権への不信感を強めていた。
ところが、佐野政言が切腹した翌日から、なぜか米の価格が下がり始めたという。
すると、世間の人々は佐野政言を「世直し大明神」と祀り上げ、御利益を授かろうと、政言の墓所のある徳本寺に殺到した。
対して、田沼意知の葬列には町人たちが石を投げ、悪口を浴びせたという。
意知の死をきっかけに、人々の田沼政権への不満が噴出していく。
意次、失脚
天明6年(1786)7月、関東を襲った大雨が大洪水を引き起こし、莫大な費用をかけた印旛沼干拓計画が頓挫する。
同年6月に発令した全国御用金令も強い反発を招き、撤回に追い込まれた。
意次の責任を問う声が上がり、窮地に追い込まれるなか、同年8月25日に、十代将軍・徳川家治がこの世を去った(公式には9月8日死去)。
意次は、最大の後ろ盾を失ったのだ。
同年8月27日、意次は病を理由に老中を辞した。
同年閏10月、二万石が没収され、謹慎が命じられる。
同年12月に謹慎は解かれたが、天明7年(1787)6月に、寺田心が演じる松平定信が老中首座に就任し、同年10月、意次は二万七千石の没収と隠居、蟄居謹慎が申し渡された。
松平定信は意次の政敵で、意次を敵視していた。
二度におよぶ厳封により、意次は五万七千石の大名から、一万石の大名になった。
完全に失脚した意次は、表舞台に返り咲くことのないまま、天明8年(1788)7月24日、70歳で死去している。
なお、老中首座となった松平定信が主導した「寛政の改革」は、蔦屋重三郎の人生に大きな影響を与えることとなる。
筆者:鷹橋 忍