「不潔恐怖症は君の人生に必要なのか?」と刑事に問われ、「自分の意思、活動力を信じろ」と医師に言われた。この体験が病気の家族の対応に役立った

2025年3月17日(月)10時30分 婦人公論.jp


イメージ(写真提供:Photo AC)

連載「相撲こそわが人生〜スー女の観戦記』でおなじみのライター・しろぼしマーサさんは、企業向けの業界新聞社で記者として38年間勤務しながら家族の看護・介護を務めてきました。その辛い時期、心の支えになったのが大相撲観戦だったと言います。家族を見送った今、70代一人暮らしの日々を綴ります

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心のからくりが生活をおかしくする


高良興生院は、庭のある普通の和風の住宅である。

19歳の私は、菌が恐ろしくて手の皮がふやけるほど長時間洗うことも、バスや電車の吊り革がつかめないことも、入院すれば、全て治ると思っていた。

入院するとすぐに1週間にわたる臥辱がはじまった。食事は朝、昼、晩と運ばれてくるが、それ以外は寝ていなくてはならないのだ。それが森田療法のやり方で、患者はあらゆることを考える時間が与えられるが、体の疲れをとる意味もあった。体が悪いわけでもないのに寝ているのは苦痛で、いつも通りに起きて動きたいと思い、イライラしてきた。

1週間が過ぎて、庭に出た時の感動を私は今も覚えている。木々の葉、雑草、そこで掃除をする人、全てからキラキラとした美しい生命の輝きを感じたのである。

私以外の神経症の入院患者は、一流大学に通う男子学生7名と20代のOLの2名だった。

高良興生院では、作業療法を行い、各患者が庭の掃除、お風呂の掃除、トイレ掃除などを分担して行い、神経症を抱えながらも、本来なすべき行動をすることを学ぶのである。気持ちに負けて、私の場合は過剰に手を洗うことを、森田療法では「はからいごと」と言っていた。

作業の合間や夕食後の患者同士の会話は、神経症でない人が聞いたら奇妙そのものである。人柄が良さそうなOLのAさんは、自分に体臭があり回りの人が嫌がるのではないかと気にして会社にいけなくなった。しかし、Aさんに近づいても、全く体臭はしない。とても感じの良い大学生のBさんは、人前で話すと顔が赤くなることを過剰に意識して、休学まで考えているという赤面恐怖症だ。しかし、私と話しても顔など赤くなっていない。それに、人前で顔が赤くなっても「照れ屋」としての個性になり、別に良いのではないかと私は思った。それぞれが、心のからくりにより何かに囚われて、身動きができなくなっているのである。

治療は、日記を毎日書いて、院長である阿部先生や他の医師がアドバイスを書き込んでくれるのである。阿部先生は、院内を歩いて患者に治療に役立つ生活のアドバイスをしたり、時には患者たちと庭でミニゴルフゲームをしたりしていた。

同じくらいの年齢の患者の中で、私は自分の行動の異常さに気づき、19日間の入院で症状は良くなり退院した。

父親を「人間として見る」ことを教えられた


家にもどり、大学への通学を続けていたが、私の生活はどんどんもとの不潔恐怖症に戻っていった。なにもしない時間があることもまずかった。

そして、父のことが、さらに嫌になってきた。家は製造業で、母が内職の人たちとともに作った製品を、父が都内の会社に届けて販売していた。父には愛人がいて、会社を継ぎたいと言っている愛人の身内もいると得意先の人が、母にいちいち報告していた。父は私の兄を嫌い、仲良く食事をする光景などなかった。入院中に、愛人のことは書かなかったが、父の嫌なところを記述したら、阿部先生が「お父さんを人間としてみてあげなさい」と書いていた。

ある日、再び長時間手を洗い、洗濯を繰り返す私を見た父は怒り、「外の世界がどれくらい恐ろしいか見てこい」と言い、私を外に放り出して、家の鍵を閉めてしまった。私は靴もなく、靴下のまま午後の街をさまようはめになった。


イメージ(写真提供:Photo AC)

交番の前を通り過ぎた時、外にいた警官に声をかけられた。「何ではだしなの?どこから来たの?」。私が答えないので、記憶喪失症ではないかと、パトカーで近くの警察署に連れて行かれた。中年の刑事さんが「僕と話をしよう」と言い出した。小さな会議室で、私は刑事さんの前に坐った。さすが刑事さんだと思った。いきなり「君のその荒れた白い両手はどうしたの?」とたずねてきた。私は一気に心がゆるみ、自分が約1年前から不潔恐怖症であり、入院しても治らず、父に外にたたき出されたことを話した。

刑事さんは言った。「君は学校を卒業したら、どこかに勤めて、結婚したりするだろう。その君の人生に不潔恐怖症は必要なの?」

私はその言葉に一瞬にして目が覚めた。それと同時に阿部先生が話しの中や日記に書いてくれた「自分の意思、活動力を信じて」という言葉の意味がわかった。清潔でいることは大切だが、不潔恐怖症は私の人生に必要ないのである。

最後に「あるがまま」の境地になれた


家の住所を刑事さんに言うと、父と母が迎えに来た。刑事さんは父に「良いお嬢さんじゃないですか」と言った。父は嬉しそうな顔をした。

私は徐々にではなく、一気に治そうと思い、消毒用のアルコールを母に渡した。

それから、大学で人形劇のサークルに入り、床を這いまわって人形を動かした。不潔恐怖症は何処かにいってしまった。

高良興生院は1995年に閉鎖し、阿部先生は森田療法クリニックを開院した。阿部先生との縁は、その後も切れなかった。兄が統合失調症になった時は兄の通院する病院が家族に親切ではなかったので、家族の対応について聞きにいった。難病の父の介護で、どうすることもできない状態の時は、阿部先生に相談し、森田療法の「あるがまま」の姿勢で母と私は耐えた。母が認知症になった時も、私は最後に「あるがまま」の境地になれた。2013年に森田療法クリニックは閉院した。受付の人が私に教えてくれたので、私はお別れの挨拶に行った。

阿部先生は、回りの人たちに感謝していて、「しろぼしさんを含めて患者さんたちがいたから、私も生きてこられた」と話していた。

それ以前に、私は阿部先生が言った言葉を、頼んで紙に書いてもらったことがある。その言葉は、私の人生に大切なので、今でもバッグに入れて持ち歩いている。たぶん同じ立場でないと分からないから、内緒にしている。

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