森永卓郎さんがゼミ生に教えた、社会でも活躍するための「黙るよりスベれ」精神
2025年4月11日(金)12時30分 婦人公論.jp
(写真提供:Photo AC)
テレビやラジオなど多くのメディアで活躍した経済アナリストの森永卓郎さん。2023年末にがんであることを公表してからも活動を続けていましたが、2025年1月28日に逝去されました。今回は、森永さんが病と闘いながら書き遺した著書『森永卓郎流「生き抜く技術」ーー31のラストメッセージ』から、森永さん流<生き方の本質>を一部引用、再編集してお届けします。
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スベったときのリアクションは狩野英孝さんに学べ
獨協大学で教鞭をとるようになって20年が経った。
私のゼミでは、2年生の春学期を中心にかなり特殊な教育をしている。それは、徹底したプレゼンテーションの訓練だ。
ここでは、ブレインストーミングやディベートといった通常のトレーニングに始まり、川柳や三題噺(さんだいばなし)(3つのランダムなテーマを即興でまとめて話す落語)、ものボケなどを通じて、あらゆる表現手段を学んでいく。
2年生の秋学期は、そうして身につけたプレゼンテーション能力を踏まえて、2人1組で労働経済関連のテーマで通常のプレゼンテーションをして、実践的な能力を確立する。
そして、私のゼミで最も重視しているのが3年生の授業だ。授業時間の90分間(2019年度から100分)をすべて発表者の学生に委ね、テーマ選定、企画、構成、パフォーマンスなどを自由に選ばせている。テーマは、ゼミの専門である労働経済学にとらわれない。宗教や政治、最先端産業、ダンス、音楽、宇宙、筋トレ、アニメなど、千差万別だ。
そして4年生になると、本来のゼミ研究に戻る。経済学関連の卒業研究の中間発表をしてもらい、ゼミ生同士で論評し合って、卒業研究を仕上げていく。
何事にも動じない鋼の心臓を育てる
私のやっている2年生、3年生のゼミ活動は、ある意味で吉本興業が運営している芸人養成所「NSC」の授業内容と、かぶっている部分が多い。
なぜ、そんなことを始めたのか。そのきっかけは就職活動だった。
ゼミの黎明期、とても優秀な女子学生がいた。成績は学内でもトップクラスで、努力家で、性格も温厚で、誰からも好かれるタイプだった。
ところが、彼女が就活を始めると、まったく内定が取れなかった。言い方は悪いが、チャラチャラと遊んできた同級生が一流企業の内定を次々と取ってくるなかで、彼女だけが就活につまずいていたのだ。
私は、ゼミのあとに少しだけ彼女に残ってもらって、面談をすることにした。原因は、すぐにわかった。彼女は緊張すると、うつむいて、こちらの目を見ずに、ぼそぼそと小さな声で話すことしかできなかった。つまり、自分の本来の姿をアピールすることが、まったくできていなかったのだ。
いくら努力して能力を身につけても、それを伝えることができなければ何の意味もない。そこで私は、どんな場面でも絶対に頭が真っ白にならない“鋼の心”を育てることを優先することにしたのである。
ゼミ生が最も恐れているのが、2年生の春学期の終盤に行なう「ものボケ」だ。ものボケの日は、私が用意した30種類ほどのグッズを教壇に並べる。そしてゼミ生はグッズをひとつ選んで、自分なりのものボケを披露していく。それを時間いっぱい繰り返すのだ。
ゼミ生は20人余りだから、だいたい15周くらいする。最初の5~6周は、自分なりの持ちネタで何とかやり過ごすことができるのだが、その後は必ずネタ切れになる。だが、そこからが勝負だ。
プレッシャーに耐えて、ムリやりひねり出したネタは、たいていスベる。ただ、スベって、スベって、スベりまくると、何事にも動じない鋼の心臓が培われていくのだ。
ちなみに、スベったときの最悪の対応は、恥ずかしさに耐え切れずに「キャー」と言ってグッズを放り投げ、逃げ帰ることだ。そのときだけ私は、「スベったときほど堂々としなさい」とアドバイスをする。
やっている本人が恥ずかしそうにすると、その恥ずかしさが観客に伝染してしまう。
そうではなく、お笑い芸人の狩野英孝さんがよくやるように、堂々とその場に立ち止まり、右手を高く上げて、「サンキュー、サンキュー」と言いながら、ていねいにグッズを教壇に戻し、ゆったりと引き上げる。そうすると観客は、あたかも「ものボケ」が成功したかのような感覚に陥るのだ。
誰かが勝手に才能を見つけ出してくれるほど社会は甘くない
こうしたトレーニングを積み重ねると、2年生の終盤には、ふたりのゼミ生をランダムに選んで漫才をやってごらんと言えば、大体30分のネタ合わせで誰でも漫才ができるようになる。
ただ正直に言うと、面白い漫才をする学生と、あまり面白くない学生に、結果は明確に分かれる。
(写真提供:Photo AC)
プレゼンテーションの技術を教えることはできる。だが、私の20年間のゼミ活動のなかで、ずっと抱えてきた課題は、どうしたらクリエイティビティを鍛えることができるのかということだった。
そして、その結論は、「クリエイティビティを教えることはできない。できるのは、彼らが自由に表現できる舞台を用意することだけだ」ということだ。
3年生のゼミで、完全に自由な発表の舞台を与えているのは、そうした考えに基づいている。ただ、残念ながらクリエイティビティは、持って生まれた才能に依存する部分も大きいのが現実だ。
ゼミの卒業生のなかには、映像制作の分野で大ブレイクした学生や、放送作家としていまや第一人者になった学生もいる。彼らは、なぜか卒業後に私のゼミの出身者であることを隠すので、あまり世間には知られていない。ただ、彼らが3年生のときに作った自分たちなりの舞台は、抜きん出て面白かった。
もちろん、そこまでいかなくても、ゼミで自分なりのステージを創り出した経験は、その後の社会での活躍に大いに役に立っている。
誰かが勝手に才能を見つけ出してくれるほど、社会は甘くない。自分が何を考え、どういうプランを持っているのかは、まず自分から積極的にアピールしないと相手には伝わらないからだ。
いまの獨協大学を作り上げたのは……
ちなみに先日亡くなった司会者の小倉智昭さんは、獨協大学の1期生だ。大学が創立されて最初の卒業生だから、就職活動の際に知名度がほとんどなく、苦労は多かったという。
そうした厳しい環境のなかでも、自分たちは独自の経験を積み重ねてきたのだという大学の自由闊達(かったつ)な文化と、そこで培われた能力をアピールしてきた。こうした努力の積み重ねが、就職にとりわけ強い、いまの獨協大学を作り上げたのである。
大学のゼミというと、いまだに100年前のカビの生えた原書を読み進めて、教授の論評を聞くような活動をしているところが多い。しかし、そんなことをして、一体何の役に立つのだろうか。学生のほとんどは、考古学者になりたいなどと思っていないのだ。
破天荒と言われる私のゼミ活動も、あと2年で定年を迎え終わるが、それを自由にやらせてくれた獨協大学には本当に感謝しているし、その気持ちは大部分のゼミの卒業生も共有してくれていると、私は強く思っている。
私がゼミの2年生に最初に指導することは、「黙るよりスベれ」ということだ。ハーフスイングでホームランを打つことはできないからだ。
※本稿は、『森永卓郎流「生き抜く技術」ーー31のラストメッセージ』(祥伝社)の一部を再編集したものです。
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