『光る君へ』伊周の弟・藤原隆家の破天荒な生涯、“さがな者”と称され、「刀伊の入寇」で日本を救った戦う貴族

2024年7月22日(月)8時0分 JBpress

今回は、大河ドラマ『光る君へ』において、竜星涼が演じる藤原隆家を取り上げたい。

文=鷹橋 忍 


武勇の貴族

 藤原隆家は、天元2年(979)に生まれた。

 父は井浦新が演じた藤原道隆、母は板谷由夏が演じた高階貴子である。

 三浦翔平が演じる同母兄の藤原伊周より5歳年下、高畑充希が演じる同母姉の藤原定子より、2歳もしくは3歳年下。

 叔父にあたる藤原道長より13歳年下、塩野瑛久が演じる一条天皇より一つ年上となる。

 剛毅な性格だったといわれ、歴史物語『大鏡』第四巻「内大臣道隆」には、「世の中(天下)のさがな者」と世間から称されたとある。

 さがな者は「規格外の乱暴者・無鉄砲者」(関幸彦『刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機』)、「やんちゃ坊主」(石川徹校注『新潮日本古典集成 大鏡』)、「がむしゃら男」(保坂弘司『大鏡 全現代語訳』)などと訳される。

 平安貴族は武より文を重んじる傾向がみられるとされるが(山本淳子『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』)、隆家は武勇の人だったという。


道長との対立

 正暦元年(990)5月8日、隆家が数えで12歳のとき、病に倒れた段田安則が演じた祖父・藤原兼家が、道隆に関白の座を譲り、7月2日にこの世を去った。

 道隆は政権の座につき、「中関白家(道隆の一族)」の栄華がはじまった。

 同年7月、道隆は伊周を右中将、隆家を右兵衛権佐に任じるなど、子息たちを昇進させていく。

 10月には、一条天皇の後宮に入内していた定子を中宮に立てた。

 定子はいつしか一条天皇の寵愛を受けるようになり、正暦5年(994)8月、21歳の伊周は内大臣に任じられ、16歳の隆家は従三位に叙せられた。

 しかし、父・道隆は長徳元年(995)4月10日に病死し、新関白に任じられた玉置玲央が演じた藤原道兼も就任から10日余りで疫病のため没すると、道長が内覧に任じられ、政権の座に就いた。

 以後、伊周と隆家は、道長と対立を深めていく。

 秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』には、伊周と道長が会議の席で激しく口論したこと(同年7月24日条)、道長と隆家の従者が七条大路で合戦となったこと(同年7月27日条)などが記されている。


兄弟で事実上の流刑に

 翌長徳2年(996)正月には、本郷奏多が演じる先帝・花山院とトラブルになった伊周が、隆家に命じて、花山院に射かけたことにはじまる「長徳の変」が勃発した(樋口健太郎 栗山圭子編著『平安時代 天皇列伝』 高松百香「一条天皇——外戚の後宮政策に翻弄された優等生」)。

 これらの罪により、同年4月24日、伊周は大宰権帥、隆家は出雲権守への左遷の決定が下された。事実上の流刑である。

 二人は任地へ向かったが、病のため、伊周は播磨国、隆家は但馬国での滞留を認められた。

 ところが、同年10月7日、伊周が勝手に上京し、定子の御在所に潜伏した。だが、発覚し、今度こそ大宰府へ配流された。


兄と姉の死

 長徳3年(997)3月25日、吉田羊が演じる藤原詮子(東三条院)の御病の平復のために大赦が行なわれた。同年4月5日、伊周と隆家の召還も赦され、二人はそれぞれ帰京した。隆家、19歳のときのことである。

 帰京が叶った隆家は、翌長徳4年(998)10月、兵部卿に任じられた。

 道隆の死や長徳の変により後ろ盾を失っても、一条天皇の定子への寵愛は続いており、長保元年(999)11月7日、定子は一条天皇の第一皇子となる敦康親王を産んだ。

 同日、11月1日に入内した道長の娘・見上愛が演じる藤原彰子に女御宣旨が下され、長保2年(1000)2月には、定子を「皇后」、彰子を「中宮」とする、史上初の「一帝二后」が決行された。

 同年12月、定子は僅か2歳の敦康親王を残し、第三子となる皇女・媄子を出産した翌日に死去した。

 寛弘7年(1010)正月には、兄の伊周が37歳で没している。隆家は32歳になっていた。


甥の立太子ならず

 翌寛弘8年(1011)6月22日、一条天皇が崩御した。

 皇太子・居貞親王(父は冷泉天皇、母は藤原兼家の娘・藤原超子)が36歳で即位し、木村達成が演じる三条天皇が誕生した。

 隆家は甥の敦康親王が、次の皇太子となることを望んでいた。

『大鏡』第四巻「内大臣道隆」にも、隆家は敦康親王が皇太子となるのを、心待ちにしていたと記されている。

 世間の人も、「もし、敦康親王が御即位あそばし、この殿(隆家)が後見でもなさったら、天下の政治も隙間なく治まるだろう」と期待していたという。

 ところが、皇太子になったのは、彰子が産んだ第二皇子の敦成親王(道長の孫、後の後一条天皇)だった。

 隆家の失望は大きかった。

 だが、隆家は人々の「きっと、がっかりしているに違いない」という想像を覆してやろうと思い、三条天皇の大嘗会で、大変に煌びやかに装った。

 隆家には、そういう負けず嫌いなところがあったと、『大鏡』に綴られている。


目を病み、大宰府へ

 道長の日記『御堂関白記』長和2年(1014)正月10日条には、隆家が「去年の突目により、この何日か籠居している」と記されている。

 突目とは、「匐行(ふくこう)性角膜潰瘍」のことである。

 角膜の突き傷から細菌に感染して起こる化膿性潰瘍で、主症状は角膜の混濁、異物感、痛み、眩しさ、流涙などである。進行すると黒目に穴が開き、失明に至る。

 隆家は、その突目を患ったのだ。

『小右記』には、隆家が実資のもとを訪れ、眼病について相談したことが記されている。隆家と実資は邸第が隣同士で、頻繁に行き来する、親しい間柄だったという(倉本一宏『平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像』)。

『大鏡』第四巻「内大臣道隆」によれば、「大宰府には、唐人(正しくは「宋人」)の眼病の名医が来日しているそうなので、診て貰おう」と大宰府赴任を希望したという。

 長和3年(1014)11月、隆家は大宰権帥に任じられ、翌長和4年(1015)4月に赴任した。隆家、37歳の時のことである。

 隆家は大宰府で善政を行ない、九州の人々を心服させたという。

 大宰権帥の任期(5年)の最後の年、隆家は大変な事件に遭遇し、武勇を轟かすことになる。

 その事件とは、「刀伊の入寇(刀伊の来襲)」である。


戦う貴族

 刀伊の入寇とは、寛仁3年(1019)に、東部満州のツングース系の民族「東女真族」が、高麗を襲撃した後に、九州北部に攻め込んできた事件である(倉本一宏『平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像』)。

 多くの日本人が殺害、または拉致されるなど、甚大な被害をこうむったが、隆家は自ら指揮を執って戦い、九州の武士たちの奮戦もあり、見事に撃退した。

 隆家の人望と的確な処置と戦う姿勢が、被害を最小限に抑えたと称すべきだという(倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』)。

 都からの文書には「功績者には褒美を与える」とあったため、隆家は11人の名簿(隆家の名はなし)を都に送ったが、隆家をはじめ、ほとんどの者が何も貰えなかった(倉本一宏『平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像』)。

 同年11月、隆家は大宰権帥を辞して京に戻り、寛徳元年(1044)の1月1日に、66歳で、この世を去った。

 九州の武士たちを率いて、勇ましく戦う隆家を、我々視聴者は観ることができるのだろうか。


【藤原隆家ゆかりの地】

●大宰府政庁跡

 福岡県太宰府市観世音寺にある。

 7世紀後半〜12世紀後半にかけて機能した行政機関で、中心地には政庁が建てられた。

 九州を統括し、大陸との外交と防衛にもあたった。

 藤原隆家は、長和3年(1014)と長暦元年(1037)に、大宰権帥に任じられている。

筆者:鷹橋 忍

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