次期将軍の突然死は田沼意次の仕業なのか…18歳の徳川家基が鷹狩りの後に急逝した田沼時代最大のミステリー
2025年4月13日(日)16時15分 プレジデント社
楊洲周延画「温故東の花 第五篇 将軍家於小金原御猪狩之圖」、明治22年(1889)6月、東京都立図書館蔵
楊洲周延画「温故東の花 第五篇 将軍家於小金原御猪狩之圖」、明治22年(1889)6月、東京都立図書館蔵
■将軍後継者の母は、女官からお手つきになった「知保の方」
大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)で徳川家基(演・奥智哉)の死が描かれました。家基(幼名・竹千代)は10代将軍・徳川家治(眞島秀和)の長男です。家基が生まれたのは、宝暦12年(1762)のことでした。
その母は家治の側室・蓮光院(俗名は知保、「べらぼう」では高梨臨が演じる)。お知保の方は、津田宇右衛門信成の娘と言われていますが、一説によると、お知保は信成の養女であり、実家は貧家だったようです。家治付の中臈(女官)となったお知保は、その寵愛を得て家基を産んだのでした。ちなみに将軍・家治の正室は倫子と言いました。
倫子は2024年に放送されたフジテレビのドラマ『大奥』で主人公となっています。倫子を演じたのは「べらぼう」で遊女・瀬川を演じている小芝風花さんです。倫子は元文3年(1738)に閑院宮直仁親王(父は113代・東山天皇)を父として生を受けていますので、天皇の孫ということになります。倫子が家治の正室となったのが寛延2年(1749)のこと。家治と倫子の間には女子が誕生しますが、男子には恵まれませんでした。
【参考記事】10代将軍の正室・倫子は宮家から嫁ぎ34年の生涯を駆け抜けた…夫婦仲良好も側室を拒否できない御台所の苦悩
「徳川家治像」18世紀(画像=徳川記念財団蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
■18歳まで無事に成長した家基が急死するという不幸
よって、お知保が産んだ家基は倫子の養子となっています。家基は将軍の子に多かったように幼少期に亡くなることなく、順調に成長しますが、安永8年(1779)2月24日、突如としてこの世を去ることになるのです。同年の2月4日、家基は目黒の辺りで「御放鷹」をしています(19世紀に編纂された江戸幕府の公式史書『徳川実紀』)。同月10日には「内外の士」(射手19人)に騎射を命じ、それを観覧しています。
そして同月21日には新井宿の辺りで「鷹狩」を行った家基。その帰途には東海寺(東京都品川区)に立ち寄ります。東海寺は3代将軍・徳川家光により創建された臨済宗寺院です。ところがこの東海寺にて家基は突然、病となってしまいます。よって急ぎ江戸城に帰ることになるのです。家基の病平癒を祈って、早速祈祷が行われました。また溜詰(江戸城に登城した際、黒書院の溜の間に席を与えられた)の大名や高家(朝廷関係の儀式典礼を司った役職)の者たちは出仕して家基の病状・体調を窺います(2月23日)。
翌日(24日)には御三家や「群臣」も出仕して家基の病状を窺いました。家基は前述したように10代将軍・家治の嫡男。家治の後継としていずれは11代将軍となるべき立場でした。その家基の急病に諸大名は色めき立ったのです。しかし、諸大名の心配や祈祷の甲斐なく、家基は数えで18歳の若さで2月24日に死去します。後継者となるべき長男の死は家治に深い悲しみをもたらしました。
■最後の鷹狩に同行した医師は、田沼意次が派遣した?
これまで見てきたように、家基には不健康なところはありませんでした。亡くなる同じ月にも「放鷹」や「鷹狩」を行っています。よって家基の急死には裏があるのではないかとの説も出てくるのです。『続三王外記』という書物も家基の死に裏があるのではないかとするものの1つです。
同書によると、家基の最後の鷹狩の際には池原雲洞(伯)という医師が随行していました。医師・雲洞は老中・田沼意次(演・渡辺謙)が家基に付けさせたということで、家基は意次により間接的に毒殺されたのではないかというのです。しかし、この『続三王外記』との書物の史料的価値は低いとされています。しかし、部分的に信用できるところもあると主張する学者もおります。(辻達也「田安宗武の籠居をめぐって——『続三王外記』の信憑性——」(『専修史学』24号、1992年)。では、意次が家基を殺害したとの風説や逸話は信用できるのでしょうか。
田沼意次(画像=牧之原市史料館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
■来日したドイツ人・シーボルトが書いた家基の落馬説
7年後の天明6年(1786)8月下旬、意次は老中を辞職することになりますが、それには将軍・家治の死が深く関係しているとされます。家治は同年8月25日に亡くなり、意次は8月27日に老中を辞職したのです。意次の権勢の根源は将軍・家治でした(藤田覚『田沼意次』ミネルヴァ書房、2007年)。つまり、意次の立場も家治があってこそと言えるでしょう。その家治の嫡男・家基を意次が殺害することは普通に考えてあり得ないと筆者は考えています。
家基の死については異説もあります。その異説を載せているのが、江戸時代後期に来日したドイツの有名な医師・博物学者フォン・シーボルトの著書(『日本交通貿易史』)です。同書によると家基は献上されたペルシャ馬に乗っている時、馬が暴れたため落馬したとあります。そしてその後、亡くなったというのです。
シーボルトは1823年に長崎に到着し、1826年に江戸に参府しています。家基の死から40年以上が経っており、外国人のシーボルトがどのような経緯で家基の死因を知ることができたのかは分かりません。想像をたくましくすると、家基は落馬して亡くなったとする俗説をシーボルトは書き留めただけかもしれません。
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの署名入り肖像画、1875年(写真=Edoardo Chiossone/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
■11代将軍になるはずだった家基が亡くなって得をしたのは?
さて将軍・家治は嫡男の家基が死去した時、40代前半でした。まだ実子を作ることができる年齢です。しかし家治は養子を迎えることにします。それも将軍家や幕藩体制の早期安定を優先させたからです。家治の養子の選定を中心的に担ったのが意次でした。意次らが「御養君御用係(おんやしないぎみごようがかり)」に命じられたのは、天明元年(1781)4月のこと。養子=次期将軍ということですので、その選定は大任と言えるでしょう。家治の養子は、徳川治済(一橋家)の子・豊千代(後の11代将軍・徳川家斉)に決定します。養子選定という大任を果たした意次は1万石を加増されるのでした。
「11代将軍・徳川家斉の肖像」19世紀、徳川記念財団蔵(写真=狩野養信か/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
家治は死の直前、意次に怒り、そのため意次は老中を罷免されたのではとの説もあります。しかしその一方で、意次は依願免職であり、処罰されて罷免されたのではないこと、意次の免職は家治の死の直後ということを考慮して、同説(家治の怒りによる罷免)は怪しいとの見解もあるのです。とは言え、家治が病の時、「1日にして(意次に対する)将軍のご機嫌が悪くなった」と意次に告げる者があったのは事実です。
■なぜ田沼意次は将軍家治から急に見離されたのか?
天明7年(1787)5月15日、意次は上奏文の中でそのことを書いています。が、意次は家治の怒りを買うようなことは「身において覚えなし」と主張しています。意次曰く、昨日まで家治の機嫌は「うるわしく入らせら」れたとのこと。家治の機嫌の急変を、意次は自身の運の衰えであり「是非に及ばざる次第」「身の不肖を恨むほかなし」と嘆いています。
意次は後日、家治に落ち度なきことを言上すれば嫌疑も晴れると思っていたようですが、意次のかたわらに「職を辞すべき」としきりに勧める者がいたようです。よって仕方なく、病を理由にして辞職したと意次は書いています。では意次に辞職を勧めたのは誰か。老中の水野忠友(駿河国沼津藩主)ではないかと推定する人もおります。忠友は意次の次男(意正)を養子に貰っていました。そのお陰もあり、忠友は旗本から沼津藩主になり、果ては老中(意次に次ぐ立場)にまで出世します。
■急に田沼を裏切った人物も、政治の裏には様々な陰謀があった
その忠友は天明6年(1786)9月上旬には、意正を離縁することを願い出、それを幕府から許可されています。忠友には他に後継がいなかったにもかかわらず、養子の意正を離縁したのだから、普通ではありません。離縁の表向きの理由は忠友が意正のことを気に食わないからとされています。が、忠友は意次を裏切り、意次失脚に伴う被害が自身に及ばないように意正を離縁したのでしょう。変わり身の早いことですが「処世術」に優れていると言えば言えます。
また、忠友が意次にしきりに辞職を勧めたとすれば、それは自身が意次の立場にならんがためでしょう。しかし、松平定信の登場により「田沼派」と目されていた忠友は老中を辞任することになります。忠友は旗本・岡野知暁の子(忠成)を新たに養子に迎えることになりますが、水野忠成は後に老中にまで出世します。この忠成は田沼意正を若年寄に昇進させています(1819年)。これを養父・忠友の仕打ちの罪滅ぼしだとする推測もありますが、果たしてどうでしょうか。それはさておき、田沼意次辞職の裏には様々な陰謀があったように思われます。
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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。
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(作家 濱田 浩一郎)