なぜ台湾の人々は親日なのか…現地の歴史教科書に必ず載っている「台湾で最も尊敬される日本人」がやったこと
2025年5月11日(日)9時15分 プレジデント社
八田與一の銅像。八田與一と妻外代樹の墓。台湾台南市烏山頭ダム(写真=ellery/CC-BY-SA-4.0,3.0,2.5,2.0,1.0/Wikimedia Commons)
八田與一の銅像。八田與一と妻外代樹の墓。台湾台南市烏山頭ダム(写真=ellery/CC-BY-SA-4.0,3.0,2.5,2.0,1.0/Wikimedia Commons)
■台湾人で知らない人はいない日本人の正体
台南の市街地で拾ったタクシーの運転手にその行き先を告げると、彼はこう言って笑った。「私たち台湾人にとって大切な場所ですからね。知らないはずがありませんよ」
水田や果樹園が広がる景色の中を一時間ほど走ると、その「大切な場所」に辿り着いた。その地を「烏山頭(うさんとう)ダム」という。このダムとそこから流れ出る農業用水を整備した人物が「台湾で最も尊敬される日本人」と称される八田與一(はったよいち)である。
台湾の教科書には彼の功績が写真入りで大きく掲載されている。明治19(1886)年2月21日、石川県河北(かほく)郡花園村(はなぞのむら)(現・金沢市今町)で生まれた八田は、第四高等学校を経て東京帝国大学(現・東京大学)に入学。工学部土木科で最新の工学知識を学んだ。卒業後、八田は台湾に渡った。総督府の土木局に勤務するためである。
日本が台湾の開発に注力していく中、八田は南部の嘉南(かなん)平野における灌漑工事を任された。当時の嘉南平野は、深刻な干魃(かんばつ)が繰り返される不毛の土地であった。農民たちは慢性的な水不足に悩まされながら、貧しい生活を送っていた。逆に雨季には洪水が発生する時もあり、治水事業はこの地にとって大きな課題であった。
■作業員たちのためにつくった意外な施設
大正9(1920)年、八田の指導の下で大規模な水利工事が始まった。巨大なダムを設けた上で平野部に用水路を張り巡らせ、この地を豊かな大地へと変貌させようというのである。これは日本国内でも前例を見ないほどの壮大な事業であった。工事には、日本人も台湾人も一緒に参加した。その数、およそ2000人。
八田は的確な指示で作業員たちをよくまとめ、危険な現場へも自ら率先して足を運んだ。八田は作業員たちのために、宿舎はもちろん学校や病院まで建設した。「良い仕事は安心して働ける環境から生まれる」という理念のもと、八田は町自体をつくりあげたのだった。
作業員たちは八田に厚い信頼を寄せた。また、八田はパワーショベルやエアーダンプカーといったアメリカ製の最新式の重機を次々と導入。作業の効率化を図った。
そんな八田を支えたのが妻の外代樹(とよき)である。外代樹は八田と同郷の金沢市の出身。実家は開業医で、外代樹は金沢第一高等女学校を卒業後、お見合い結婚によって八田家に嫁いだ。その後、二人は8人の子宝に恵まれた。
結局、嘉南平野におけるこの大工事が終了したのは、着工から10年後の昭和5(1930)年であった。途中、関東大震災の影響で予算が削減されるといった数々の苦労もあったが、未曾有の灌漑用ダムはここに竣工したのである。
烏山頭ダム(写真=Guanting Chen/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)
■フィリピンに向かう途中で
ダムの周囲の街路樹には、完成の記念として日本の桜が植えられた。ダムの規模は「東洋一」と称された。平野部を縦横に走る用水路の全長は、実に1万6000キロにも及んだ。これは万里の長城の総延長の2.5倍以上に相当する距離である。
ダムと農業用水の効果はすぐに現れた。これらインフラの完成によって、嘉南平野は台湾最大の穀倉地帯へと生まれ変わったのである。農民たちの生活レベルは飛躍的に向上した。
そんな巨大事業を成功させた八田であったが、その後の人生は悲劇的な道を辿った。昭和17(1942)年5月5日、八田は広島県の宇品港から輸送船「大洋丸」に乗船。新たにフィリピンの綿作灌漑調査を命じられた八田は、シンガポールを経由して目的地へと向かう予定であった。八田はフィリピンの農業の発展にも精力的に取り組むつもりだった。しかし、八田がフィリピンの地を踏むことはなかった。
5月8日の午後8時40分、五島列島の南方を航行していた「大洋丸」は、米軍の潜水艦「グレナディアー」などからの魚雷攻撃に遭った。大きく浸水した同船は、雷撃から約55分後に沈没。817名が亡くなるという惨劇であった。その犠牲者の中に、八田與一も含まれていた。
嘉南平野を肥沃な地に変えた男は、志半ばにして逝った。享年56。遺体は約1カ月後、漁師の網に引っ掛かって発見されたという。
■妻がとった「別の道」
八田が愛した台湾の地は、昭和20(1945)年8月の敗戦によって日本の統治下から離れた。台湾で生活していた邦人たちは、日本への帰国を余儀なくされた。
台北で暮らしていた今野忠雄さんは、親類を頼って群馬県高崎市に引き揚げることになった。父親の所有していた土地や建物は、すべて失われた。持ち出せる荷物やお金も制限された。今野さんは言う。
「台湾を去る時には、多くの台湾人の友人たちが見送りに来てくれました。皆、涙を流しながら送ってくれましたよ。悲しい別れでしたね」
台湾全土にこのような別れの場面が無数にあった。しかし、八田與一の妻である外代樹が選んだのは、別の道であった。
外代樹が選択したのは、夫の「遺作」となった烏山頭ダムの放水口に己の身を投じることだったのである。彼女が身を投げたのは、ダムの着工記念日にあたる九月一日であった。この悲しき投身は、一種の「心中」のようにも映る。
■ダムの碑に書かれていること
現在、烏山頭ダムの周辺は公園として整備され、市民に広く愛される場所となっている。敷地内にはホテルやキャンプ場なども併設され、週末には多くの家族連れで賑わう。
その一角に、八田の銅像が建っている。木立の合間に佇(たたず)む八田像は、右膝を立てて座っている。これは生前の八田が考えごとをする際によくとっていたポーズだという。
近隣には八田に関する記念室(八田技師紀念室)がある。室内には生前の八田が愛用していたという腕時計や、外代樹が使っていた硯箱や手鏡などが展示されている。
記念室から少し歩くと、小高い丘の上に殉工碑(慰霊碑)が聳えている。ダムの建設中に落盤事故などによって亡くなった134名の御霊を弔うためのものである。碑には犠牲者全員の姓名が、亡くなった順番で刻まれている。八田の強い要望により、日本人と台湾人の別なく列記されている。
殉工碑から南部に伸びる車道の脇には、桜が植えられている。完成時に記念として植樹された街路樹である。桜並木の長さは約1.2キロに及び、春には可憐な花びらが舞う。
少し離れた場所には「八田與一紀念公園」という別の施設もあるが、その敷地内には八田の妻・外代樹の銅像も建てられている。
再建された八田與一の住宅(写真=Pbdragonwang/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)
■銅像に手を合わせる人が絶えない
烏山頭ダムは現在も嘉南平野に水を供給し続けている。ただし、灌漑用ダムとしての主役の座は、昭和48(1973)年に完成した曽文(そぶん)ダムに譲っている。しかし、この地の人々は、八田への恩義を忘れていない。
親子三代にわたってこの地域で農業を営んでいるという呉志忠さんはこう語る。
「あのダムがなかったら、私たち一家はこの地に根を下ろすことはできなかったでしょう。水は農家にとって最も大切なものですから。私たちは、その歴史をいつまでも忘れません。彼の命日の墓前祭には、私も必ず参加して銅像に手を合わせています」
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田植えを終えたばかりの青々とした田圃(たんぼ)の脇で、呉さんが続ける。
「日本が大きな地震と津波に見舞われた時、私たちは自分の国のことのように心を痛めました。この辺りの農家の人たちは、私も含め、できる限りの義援金を送りました。それは私たちにとっては当然のことなのです。互いに助け合ってきたのが、日本と台湾の歴史なのですから」
平成23(2011)年3月11日に発生した東日本大震災の際、被災地には世界中の国々から義援金が寄せられたが、とりわけ多くの浄財が集まったのが台湾であった。日本と台湾との温かなつながりに、在天の八田夫妻も目を細めていたのではないだろうか。
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早坂 隆(はやさか・たかし)
ルポライター
1973年、愛知県生まれ。『昭和十七年の夏 幻の甲子園』で第21回ミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。日本の近代史をライフワークに活躍中。世界各国での体験を基に上梓した「世界のジョーク」の新書シリーズも好評。
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(ルポライター 早坂 隆)