母は担任に頭を下げ「形だけでも給食費の袋を」…「にしたんクリニック」西村誠司が明かす、厳しい幼少期

2025年5月23日(金)10時0分 読売新聞

家族と出かける小学2年生の頃の西村さん(前列左)=本人提供

 西村誠司さん(54)は、独特なCMでおなじみの「にしたんクリニック」や海外用Wi‐Fiルーターレンタルサービス「イモトのWiFi」などを手がける会社の社長。今では300億円もの個人資産を築いているが、幼い頃は経済的に苦しい家庭で育ったという。(読売中高生新聞編集室 隅谷真)

給食費の嫌な思い出

 「父が名古屋で焼き鳥屋をしていて、物心ついた頃は両親と兄、弟の5人家族で何不自由なく暮らしてました。ところが、小学校に入学する直前、父が肝硬変をわずらい、医師から『余命はあと5年』と告げられました。母も手伝ってしばらく頑張ったけれど、結局店は続けられずに手放すことになり、生活保護を受ける生活が始まります。

 子どもだったので、周りがよく見えていなかったせいか、自分の家が特別苦しい生活をしていたという記憶はありません。ただ、給食費には少し嫌な思い出があります。当時は毎月、先生から封筒を渡され、そこにお金を入れて持っていく形だったのですが、生活保護を受けている家庭は給食費が免除されていました。僕だけ封筒が配られないと、クラスで目立ちますよね。そこで、母は担任に『形だけでも封筒を配ってほしい』とお願いしてくれて……。それが、ちょっと心苦しかったのをよく覚えています」

 生活保護を受け始めた頃、母親がアルコール依存症になってしまう。

 「いろいろと大変なことが重なって、母親はお酒に頼るようになりました。余命わずかな父を看病しつつ、3人の子どもを育てていかなければならないというプレッシャーは相当なものだったのだと思います。

 とにかく飲酒量がハンパなくて、ほとんど寝ないでずっと飲み続けているような状態でした。学校が終わって家の近所で遊んでいると、ゴミの集積所に母親が倒れているのを見つけるんです。酔いつぶれて寝てしまったんでしょうね。外で飲んで深夜に帰ってきたときも、玄関の鍵が閉まっていると思ったのか、大きな石で窓ガラスを割って入ってきちゃったことがありました。そんなふうだから、警察に保護されるのも日常茶飯事。とにかくめちゃくちゃでしたね。結局、60歳くらいで亡くなる最後の最後まで、母の飲酒へきは治りませんでした」

優秀だった子ども時代

 厳しい環境に育ちながらも、学校では活発な子どもだったという。

 「自分で言うのもなんですが、とにかく優秀だったんですよ。勉強は抜群にできたし、みんなのリーダー的な存在で、小学校でも中学校でも生徒会長をやりました。もちろん、塾に通うお金なんかありませんでしたから、教科書だけを頼りに勉強しました。これは僕の持論なんですが、塾なんて通わなくても、教科書さえしっかりやれば、それで十分だと今でも考えています。だから、貧しいから勉強ができないなんていうのは言い訳。与えられたもののなかでベストを尽くせば、学力は必ずつくと思っています」

 中学に入学後、母の勧めで始めたのが新聞配達のアルバイトだった。

 「中学に入ってすぐ、新聞配達のアルバイトを始めました。兄もやっていたし、僕は素直な性格だったので、母に言われるままに『やってみようかな』って。はじめは地元紙の夕刊を、それからしばらくして全国紙の朝刊も配るようになりました。うちではお小遣いもありませんでしたから、何か欲しいものがあれば自分で稼いだお金で買いなさいということだったんだと思います。母から『家にバイト代を入れてほしい』と言われたことは、一度もありませんでした。

 朝刊は朝4時半頃から自転車で配り始めます。朝早くて誰にも会わないから気楽だったんですが、夕刊の配達時間帯は友だちに出くわすことがあるので嫌でした。でも、このバイトのおかげで、大事な“教訓”を得ることになります」

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