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島崎今日子「富岡多惠子の革命」【12】富岡多惠子と文学賞

2025年4月8日(火)6時0分 婦人公論.jp


女流文学賞発表の誌面(「婦人公論」1974年11月号)

戦後の日本文学史に決定的な影響を与えた詩人であり、作家であり、評論家であった富岡多惠子。54年を連れ添った夫・菅木志雄をはじめ、さまざまな証言者への取材をもとに、87年の生涯を辿る。

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女流文学賞受賞『冥途の家族』


 1958年、22歳のときに史上最年少、初の女性受賞者として詩人に与えられるH氏賞を受賞した富岡多惠子は、26歳で室生犀星詩人賞を受賞。74年、38歳で、はじめて書いた長編小説「植物祭」で、田村俊子賞を受賞する。
 若くない女と若い男の恋はそれだけでは終わらず、娘と母、息子と母の関係へ収斂されて、「母性神話」の欺瞞があらわになっていく。「毒親」という言葉などない時代である。受賞式で選考委員の武田泰淳は「諸行無常を感じさせる」と評し、草野心平は「H氏賞のときもユニークな作品だったが、この作品は革命的な小説」と絶賛した。
 芥川賞には、71年の「イバラの燃える音」以来3期続けて候補になっているものの、落選した。作家は最後のインタビューで、自分の小説家としての器の小ささの例として、芥川賞体験を回顧している。

〈芥川賞の候補に残ったときに、お寿司屋さんで選考結果が出るまで待機してくださいって言われたのよ。私、むかっときて即座に「下ろしてください」って言ったの。勝手に候補にしといて、どこで待てとか、……ちょっと私、それ、下ろしてくださいって言ったの覚えている。そういう態度は、嫌われるね〉(『私が書いてきたこと』2014年)

 田村俊子賞受賞の半年後、立花隆の「田中角栄研究」が掲載された「文藝春秋」発売で世間が騒然となった時期に、芥川賞とは縁のなかった富岡は、自伝的小説『冥途の家族』で女流文学賞を受賞する。女流作家の登竜門といわれた賞で、島本久恵『貴族』、曽野綾子『奇蹟』、高橋たか子『没落風景』のなかからひとり選ばれときには39歳になっていた。
 選考委員は井上靖、円地文子、佐多稲子、丹羽文雄、野上彌生子、平野謙。井上靖と丹羽文雄は、大岡昇平、瀧井孝作、中村光夫、永井龍男、舟橋聖一、安岡章太郎、吉行淳之介と並んで富岡が候補になったときの芥川賞選考委員でもあった。
 選評で野上彌生子が書いている。
〈曽つてなく満場一致の決定であつたことによつても、特異に美事な価値が立証される。(中略)私は富岡さんの作品には頭を下げてゐる〉(「婦人公論」1974年11月号)
 井上靖も記す。
〈やはり詩人としての持っているものが下敷きになっていなければ、こうした文章は成立しなかったろうと思う。余分なものは一切書かれていない。夾雑物もきれいにより分けられて捨てられている。みごとだと思った〉(同)

売れっ子エッセイスト


 小説家としても衆目を集める作家の周囲には、その才能を愛する編集者が集まっていた。中央公論社の下川雅枝もそのひとりで、新書から文芸に異動になったとき、まっさきに川崎の生田に暮らす富岡を訪ねていた。作家が女流文学賞を受賞する1年前である。
 田辺聖子や宮尾登美子などの担当編集者でもあった下川は、富岡より1世代下であった。
「もともと好きで『わたしのオンナ革命』や『青春絶望音頭』を読んでいたので、お会いしたんです。60年代が終わり、70年代に入ってまた違う文化が生まれていましたが、富岡さんは時代をすくうのがうまくて、富岡さんの仕事や発想に共感するひとは多かったと思います。『婦人公論』を出し、女流文学賞を主宰する中央公論社は女性作家を手厚くもてなしていて、それだけに野上さんや円地さんなど先輩作家がたくさんおられて、富岡さんは小説家としてはまだまだ新進でした。小説はなかなか成立しないので、『とりあえずはエッセイをまとめていただけませんか』と、お願いしました」
 下川がつくった富岡の最初の本は76年1月に出たエッセイ集『女子供の反乱』。装丁は、富岡の夫、菅木志雄に依頼した。
「ちょうど菅さんが都内のギャラリーで個展をはじめられたころですね。富岡さんのエッセイはよく売れて、すぐに増刷を重ねたのを覚えています。坂本龍一の名前を知ったのも富岡さんがレコードを出したから。あのLPを出すときは、ものすごく喜んでおられました。本人はそういう見せ方に熱心じゃなかったけれど、当時の富岡さんはスターですからね。ただそれゆえに、正統と認められるまでには時間がかかりました」
 77年、「群像」掲載の「立切れ」により川端康成文学賞を受賞した富岡は、その3カ月後、粟津潔から期限つきで借りていた川崎の借家から、町田市玉川学園の一軒家へ転居した。菅曰く、「駅から5分の高台という近さが気に入った」分譲地にミサワホームで建てた家で、夫妻にとってははじめての持ち家であった。
 下川が担当したエッセイ集『兎のさかだち』に、富岡の価値観を表すこの一文がある。

〈わたしは家を建てることに決めた時から、工場で大量生産によってつくられてくるプレハブ式の家にしようと思ったのだった。よく工事現場につくられる飯場の建物のようなつくり方である。勿論、安いということもあるが、素人の見えないところでの柱のふとさや材料の良し悪しを気にしなくていいからだった〉(「家」『兎のさかだち』1979年刊)

谷崎潤一郎賞候補作『遠い空』


 引っ越しの日には、富岡の才能を高く評価し、『冥途の家族』を書かせたのちに編集長となる「群像」の辻章が若い編集者を5人ほども引き連れてやってきたという。下川も、富岡の本をつくりたいと望む新潮社の伊藤貴和子と馳せ参じたが、この引っ越し手伝いは印象的な体験だったと苦笑する。
「引っ越し屋さんが来るのに準備ができてないから、どうするの? という感じで。広い庭には菅さんの作品と材料の枯れ木がボロボロと落ちていて、富岡さんはそれを見て『腐ったアートやわ』と呟き、椅子に座って愛犬の土丸を抱いて『つっちー』と言ってるだけ。まさに詩人でした。菅さんは自分の作品や道具をまとめることで精一杯なので、辻さんがすべて指揮され、講談社グループは荷物とともに新居のほうへ移動して、私たちは残って後片付けを引き受けました」
 その当時、中央公論社の文芸誌「海」の編集長は、政財界に影響を持ち、日本の論壇を動かして、中央公論のエースといわれた塙嘉彦だった。ある日、塙は下川に「富岡さんのところへ行きたい」と言ってきた。下川が塙と玉川学園を訪れたのは、冬のひどく寒い日だった。東大仏文で大江健三郎の学友だった塙は作家と同じ年の早生まれで、話は盛り上がり、寒さに弱い富岡がしゃべることに夢中で暖房をつけるのを忘れるほどであった。
「お宅を出たとき、塙さんが『外の方が暖かいね』と笑っておられたのを覚えています」
 のちに富岡は全集の月報で、塙と東北に取材旅行に出かけたことが、『遠い空』に所収された作品のきっかけになったと語った。「海」に掲載された「遠い空」「末黒野」を指すのだろう。
 しかし、「海」に「末黒野」が載った80年3月には、塙はもういなかった。白血病のため、1月に45歳の若さで急逝していた。下川は、塙の葬儀にやってきた富岡が冷たい外でポツンとひとりで佇んでいた姿を覚えている。
「塙さんが生きておられたら、その後、いろいろ変わっていたと思うんですね。富岡さんも」
 兼業農家の寡婦のもとにしゃべれず、聴こえない男がやってきては性行為を迫る−−「遠い空」は、東北に起こった殺人事件を題材に生きることの尽きない悲しみを描いた短編である。富岡の代表作のひとつに推すひとも多く、82年度の谷崎潤一郎賞候補作となった。下川はこの作品ならば受賞できると確信し、また受賞してほしいと願って、単行本にするときも装丁を菊地信義に頼んで力をいれてつくった。だが、受賞はならず、大庭みな子の「寂兮寥兮(かたちもなく)」に譲った。
「最終選考までいったんですが、受賞に至らなかった。富岡さんは人気詩人で、エッセイストとしても売れていて、しかも池田満寿夫さんとのことは誰もが知っていた。何か流行りもののように映ったのかもしれません。谷崎賞には馴染まなかったんですね。今のようなマルチでやることがあたりまえの時代ではありませんでした。エッセイストから小説家への転身は、とても難しかったんです」
 富岡の作品は、翌83年『波うつ土地』が、86年『水獣』が、88年『白光』が谷崎賞候補になるが、いずれも候補で終わっている。
 谷崎潤一郎の文学的功績を称揚して創設された賞は、小説至上主義的な特別な賞だった。初の女性として芥川賞の選考委員に河野多惠子と大庭みな子が、直木賞の選考委員に田辺聖子と平岩弓枝が加わったのは87年のことで、それ以降選ばれる作品の傾向も変わっていくが、日本ペンクラブ会長が桐野夏生、日本文藝家協会理事長が林真理子という現在とは違い、あの時代の文壇は男性中心社会であり、なかには富岡をはねっかえりの女と見るひともいたろう。


女流文学賞を受賞したころ(1974年12月撮影)

激しい鬱とハワイ静養


 はじめての谷崎賞候補となった前年の81年、富岡は激しい鬱になって、暮れから2カ月半ほど菅を伴いハワイへ療養に出かけている。『室生犀星』の執筆を、中断してまでのことだった。同年3月から共同通信の配信で全国6紙の夕刊に連載した新聞小説という形態が病的なほど時間厳守にこだわる自分に合わなかった、と作家は書いており、こんなことも語った。

〈あの時はハワイの浜辺で、本当に廃人になるんじゃないかと思った(笑)〉(『女の表現——富岡多惠子の発言3』1995年)

 下川は、新聞連載のスタート前から「砂時計のように」の単行本化を約束しており、足繁く玉川学園に通っていた。富岡の家に行って一緒に散歩に出かけ、馴染みの喫茶店ジローでお茶をし、時には買物に出かけるのがいつものコースで、とにかくよくしゃべった。
「大阪時代の学校の先生の体験を、面白おかしく話してくださいました。池田さんとリランとの関係が世間で話題になったときは、『これで、池田満寿夫の前妻と呼ばれることはなくなる、よかった』と喜んでおられました」
 しかし、躁鬱の傾向があった作家はある時期から急激に体調を崩していった。
「ご飯も食べられないときがあって、せめて食事をとってほしいとジローにお誘いするのですが、途中で気分が悪くなって何度もお家までお送りしました。作品の悩みに加えて体の変化期などもあったのでしょうか」
 このときの菅は、実のところ、妻の体調の悪さがそこまで深刻だとは気づいていなかった。新聞連載で得た収入をすべてつぎ込んでのハワイ行きも、長い休養だと受け止めた。
「もともと気が激しく落ちるひとだから、ずっと家で書いているとしんどくなるよね。下川さんや八木忠栄クンが来て話し込んでいると楽しそうにしているから、編集者が来てくれることは僕にとっても非常によかった。……多惠子さんが、ハワイのホテルのベランダから海を眺めている姿を思い出します。僕がもっと気のつく人間だったら、もうすこし多惠子さんの生きる道を楽にしてやれたのに」

作家になった


 ハワイから戻った富岡は水泳とテニスとエレクトーンを習うことで自己治癒に努めながら、満を持して自身の女性論ともいうべき「藤の衣に麻の衾」を、「婦人公論」83年1月号からスタートさせた。富岡に「書きたい」と言われた下川は、構想を聞いてすぐに賛同し、当時「婦人公論」にいた田中耕平に相談して舞台を用意したのである。
 冒頭にケイト・ミレットが登場する随筆は、十数年前、ウーマン・リブの時代に「傍観者」を自称した富岡がフェミニズムの台頭に刺激を受けて、「性」と「結婚」と「主婦論」を語っている。

〈わたしは、七〇年代のはじめごろから、小説を考え、小説を書いていくうちに出てくるわからない問題を、文学の内輪だけで考えていてはとうてい出口がないと直感しました。それだけでなく、現実の自分が生きていくのにわからぬことが次々に出てきますが、それらを考えていく自分のためにも、もっと時代と社会の移行を知る必要にせまられたのです。試行錯誤するフェミニズムの論考から学んでいったのも、この時代の重要な思想だと直感したからです〉(『西鶴のかたり』1987年)

 72年の『わたしのオンナ革命』で〈性を情緒として教えてもなにもならない気がする〉と書いた作家は、ここで〈一度はっきり、性を生殖から離して考える必要がある〉と宣言。ひとつの代表作になると意気込み、編集者もそれに共鳴したが、「藤の衣に麻の衾」は評判にはならず、単行本も売れなかった。
「時代が早すぎたんですね。富岡さんも、考えはできていても表現方法がまだ模索中でした。それにしても、もうちょっと反響があってもよかったと思います。ただこのころから富岡さんは作家になっていったのかもしれません。読者が『ボーイフレンド物語』などのエッセイに期待する内容ではなく、富岡さんのほうは小説世界へ入ってしまっていたとも言えます。そのころ、次の仕事をお聞きしたら、大阪の漫才作家の秋田實を『書きたい』とおっしゃったので、ちょっと驚いた記憶があります」
『藤の衣に麻の衾』の単行本は、菅のつくったオブジェを使って菊地信義が装丁している。下川は、富岡作品の装丁やデザインに菅を起用することが多く、当初は作家とのつきあいもあったものの、菅作品そのものを評価するようになっていた。文化人類学者の青木保の本でも、表紙に菅作品を使った。
「富岡さんが声をかけてくださることもあって、菅さんの個展にはよく出かけていました。菅さんのデザインはとてもモダンで、あのお人柄もあって段々積極的に描いてもらうようになっていきました。富岡さんは『腐ったアートやわ』となんて言いつつ、菅さんをとても気づかっておられたと思いますよ」
 下川がつくった富岡多恵子の本は、エッセイ集が『女子供の反乱』『兎のさかだち』『はすかいの空』『藤の衣に麻の衾』の4冊で、小説が『砂時計のように』『遠い空』と『雪の仏の物語』の3冊、計7冊である。92年に刊行された『雪の仏の物語』は作家が山形の出羽三山の寺まで取材に出かけた即身仏の話で、今度こそ谷崎賞をと期待した作品だがダメだった。下川が担当した最後の富岡作品となった。

並の才能ではなかった


 この時期から下川は富岡と少しずつ疎遠になっていく。作家はバブル崩壊直前の89年に、伊東へ転居していた。宮尾登美子が爆発的に売れ、田辺聖子の評伝取材に常時同行するなど編集者は仕事に忙殺されて、しかも遠い伊東となれば、以前のように富岡のところへ通っていけなかったのだ。
「そのあたりから出版業界は不景気になっていて、中央公論社も変わっていきました。富岡さんはパーティーにもいらっしゃらないので、お会いする機会も少なくなっていきました」
 下川と仕事をすることがなくなって以降、富岡は94年『中勘助の恋』で読売文学賞、97年『ひべるにあ島紀行』で野間文学賞、2001年『釋迢空ノート』で紫式部文学賞と毎日出版文化賞、04年日本芸術院賞、05年『西鶴の感情』で伊藤整文学賞、大佛次郎賞と大きな賞を次々と得ていった。作家としての地位を確立したかに映る。
 それでも下川には、評価されるのが遅すぎたという気持ちが拭えない。あるとき、富岡は大阪女子大の先輩でもある河野多恵子から、「もっと政治的にならなきゃ、うまくやりなさい」と言われたようだが、「私はそういうのはちょっと……」と下川に言ったものだ。
「富岡さんは並の才能ではなかった。もっともっと評価されるべきひとでした。評価されるべきときにされなかった。ご本人は、評価されなくてもいいけれどなぜされないのかという気持ちだったんじゃないでしょうか。忘れられないのは、『私は零落志向なんよ。どうしても下がっていくほうにいってしまう』と言われたことです。アップよりダウンを選んでしまう性向は、富岡さんの作家としての人生にも影響したのではないでしょうか。富岡さんに、老いていくことを見据えた小説を書いていただきたかった」
 2023年4月8日。下川は富岡多惠子の訃報を聞き、死因に衝撃を受けた。老衰は、さまざまな話題を夢中で話し込んだ作家には最も似合わなかった。

※次回は4月15日に公開予定です。

(バナー画提供:神奈川近代文学館) 

   

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