不倫疑惑の永野芽郁と田中圭よりイメージ悪いCMに小原ブラスが買わない商品
2025年5月8日(木)13時0分 大手小町(読売新聞)
先日、YouTubeのライブ配信で視聴者の方から「キャンセルカルチャーしている人や物はありますか?」と聞かれた。
キャンセルカルチャーとは、特定の個人や団体が社会的に不適切とみなされる言動をした際に、SNSなどで糾弾し、作品を見ない、商品を買わないといったボイコットや不買運動などを行い、社会的に排除(キャンセル)しようとする動きのことだ。

気に食わない著名人の出演作を見ないといったことは、「キャンセルカルチャー」というワードが普及するはるか前からあったように思う。「キャンセルカルチャーする」という表現が文法的に正しいかは疑問だが、このようなことをライブ配信で当たり前のように聞かれるのは、キャンセルカルチャーというワードが日本でも一般化したということなのだろう。
このワードが取り沙汰されるようになったのは、2012年頃にアメリカで始まったBLM(Black Lives Matter)運動がきっかけだと言われる。過去に人種差別に関わりがあったとされる歴史的人物の銅像の破壊や撤去を求めたり、組織名の変更を求めたりする一方で、アメリカの歴史や文化そのものを否定することになると、批判的な意味で「キャンセルカルチャー」とも言われた。
キャンセルカルチャーを巡っては、「ハリー・ポッター」シリーズの原作者J・K・ローリング氏が、トランスジェンダー女性を女性専用エリアに入れるべきではないとする内容の発言をしたため、彼女の著作や関連作品の不買運動が巻き起こった。
日本でキャンセルカルチャーの代表例として挙げられるのは、2021年に開催された東京オリンピックで開会式の作曲を担当することになっていた音楽家の小山田圭吾氏が、学生時代のいじめ行為を問題視されて辞任に追い込まれたケースだ。
BLM運動をきっかけとしたキャンセルカルチャーは、最近ではこうした不買、解約、活動中止や支援打ち切りなどの社会的制裁として定着しつつある。しかし、過去のあやまちはどこまで遡って追及されるべきか、関連する商品や作品に罪はあるのか。行き過ぎた非難や過剰な断罪を警鐘する意味もあったはずだが、最近ではむしろ批判や炎上をカジュアルに正当化するワードへと成り下がったように思う。
例えば、田中圭と永野芽郁の不倫疑惑報道。本人たちは否定しているが、大人気売れっ子俳優のCM降板や芸能活動への懸念に関する記事が連日ネットニュースをにぎわせている。
昨今ではそんなものにまで、「キャンセルカルチャー」という高尚なワードが使われ、さらには「私、正義のためにキャンセルカルチャーしているの」と正当な社会運動化されるのはなんだか変な感じがする。
世の中には「不倫は心の殺人だ」と言って、「不倫をするような人は相当な罰を受けるのが当然だ」と考えている人もいるようだ。でも、それは思想の一つであって、その思想を主張するのは構わないけれど、誰もが受け入れるべき当然の社会運動のごとく振る舞われても困ると言いたくなる。少なくとも僕は不倫が心の殺人だとは思わないし、「恋の衝突事故」みたいなものだと思っている。
今回のケースが仮に事実だったとして、妻子がいるのに他の人に目移りして自制を利かせられなかった田中圭は、責任を持つと約束して結ばれた家族を裏切ったという点で悪いとは思う。だけど、相手に妻子がいると知っていながら田中圭に恋をして彼の気を引いたとしても、永野芽郁がそんなに悪いとは思えないのだ。
だって恋に落ちるのは仕方がないし、相手の家族を傷つけるからと諦めていたら今度は自分が傷つく。だから永野芽郁を他人の立場から批判するのは、「お前が傷つけよ」と偉そうに言うようなもので、それが本当に正義化されるべきだと僕は思わない。
もちろん、不倫が心の殺人だと考える人は「いやいや」と主張して不買運動でもするのだろうが、僕にとっては「そんなの大した問題じゃない」の一言に尽きる。恋やら愛やらってのは、どうしたって誰かを傷つけるのだから。
このように多様な考え方がある問題に対して、「キャンセルカルチャー」なんて回りくどいワードを使う必要はないと思う。昔からある「ボイコット」というワードで十分。堂々と「嫌いだからボイコットしているものがある!」と言えばいいのではないだろうか。
もちろん僕にも勝手な思想でボイコットしているものはたくさんある。それらは自分にとって、他人の不倫よりも大きな問題を抱えたものだ。例えば僕が中学生の頃から買わなくなった商品が、缶コーヒーの「ジョージア」と消臭剤の「ファブリーズ」だ。いずれも過去に見たテレビCMにイラッとした記憶があり、CMの内容が変わった今でも触手が伸びない。
そのジョージアのCMは男性が仕事やスポーツなどをするシーンに、「男は、単純だ。」「男は、計算しない。」「男は、笑える。」「男は、口下手だ。」「男は、つるむ。」「男は、女に弱い。」「男は、張りあう。」といったコピーが次々と現れ、「男は、サイテーで、そして、男は、サイコーだ。」という文言が流れる。そして最後に缶コーヒーを飲みながら「男ですいません。」と締めくくる。
今ではちょっと考えられないCMだが、“言葉狩り”が横行するはるか前からすでに言葉を狩る快感に陥っていた僕は、「別に男は単純じゃねーよ」「は?女よりネチネチして計算高い男いっぱいいるだろ」「男のあるべき姿を語ってんじゃねーよ」といった具合で、一人ボイコットを決め込み、今に至る。ファブリーズについても同様で、「お父さん」がいつも臭くて汚い扱いをされるCMイメージに嫌気が差してリセッシュ派になった。
もちろん、これらは性差別を助長するような意図で作られたCMではないし、ジェンダー平等の意識が低かった過去のことだから、それほど大した問題じゃないという人もいるだろう。それも否定しないし、これを社会運動化する必要があるとも思わないから、大仰に「キャンセルカルチャーするんだ!」と表明したり、呼びかけたりするつもりもない。ただ気に食わなかったから、お金を落としてやらないと勝手に抵抗をするだけだ。
気に入らない人や企業、団体が販売するものを買わないという姿勢は、大昔からあった素晴らしい“経済活動”だ。ボイコットは誰でも好きにしたらいいし、そこに自分の持つ社会信念みたいなものが込められていてもいいと思う。けれど、その信念が絶対に正しく、考えに合わない人は社会から消されて当然だという振る舞いになってしまったら、世の中がいびつになるような気がする。(タレント 小原ブラス)