戦国時代の「陣立書」とは何か?戦国の軍事改革が示された史料、「車懸り」をひもとく手がかり
2025年5月27日(火)6時0分 JBpress
(歴史家:乃至政彦)
戦国時代独自の史料に「陣立書」というものがある。その解釈には
〈兵種別編成〉と陣立書
今回は、「陣立書」について簡単に説明したい。
前回の記事(「戦国時代の「軍制」はどのように進化したのか?〈領主別編成〉から〈兵種別編成〉へ、その違いと過程」)で、戦国時代以前の武士の軍隊像について述べさせてもらった。その概略は次のとおり。
10年以上前、「戦国時代の軍隊は、領主別編成から〈兵種別編成〉への移行期にあった」とする説が提起され、私も賛意を示した。そこに部分修正を加えるものである。
この説は「中世武士の軍隊は、領主たちが自発的な兵数と武装で参陣している。だから画一的な軍隊編成は困難だった」として、領主別編成(数人から数千の部隊が自分だけの好きな武装で集まる兵種のまとまりがないバラバラの編成)で、それが江戸時代に入るまでに〈兵種別編成〉と化していったとするものであった。納得感が強い。
ところが、考え直してみると、武士というのは、弓、太刀、馬上のいずれの武器も扱える万能戦闘員である。
現場で総大将に「弓隊100人を作れ」と言われたら自発的に弓だけで集まり、100人の兵種を作れないと話にならない。
ゆえに武士は領主別で集合するが、彼らは制度化されるよりも前から、実際には兵種別の編成ができたのではないかと説明させてもらった。
ここからが今回の本筋になる。戦国時代になると、このようなことができなくなってしまうのだ。そしてそれが「陣立書」という史料の登場につながっていく。
武士の衰退、足軽の台頭、鉄炮の登場
領主別編成は、その時の判断で〈兵種別編成〉に切り替えることがしばしばあった。『将門記』『平家物語』『太平記』などの軍記を見る限り、そう判断せざるを得ない。
ところが戦国時代になると、これが難しくなっていく。①戦闘技術者の消耗が激化し、②足軽雑兵の人数が増え、③鉄炮という新兵器が登場したためである。
①から説明しよう。戦国時代は日本各地で延々と戦争が続いていた。
武士は無理な戦い方を好むところがあり、戦乱が増えるにつれ、兵員の消耗が激しくなっていく。すると、万能戦士たる個人戦の技術が衰えていく。
すると、武士の「補充」(いい言葉ではないが、とりあえずそう表現する)が追いつかなくなってしまう。
貴重な戦闘技術者が減っているのだから、当然のことだ。重装備で騎乗したまま弓射できる古典的な精兵は減っていく。
人命ばかりではない。戦場で倒れた者を回収できないことも増えてくる。すると、先祖代々の高価な武装を失う武士も増えてくる。結果、ろくに鎧や兜を着用せず、鉢巻や腹巻だけで参戦する輩が目立つようになる。
そして②。足軽・雑兵の増加である。戦国時代初期までの足軽たちは、正面切っての戦いに参加することはなく、放火や略奪、建築資材の回収および軍事施設の設営など、武士が好まない仕事を請け負うのが一般的だった。
しかし、やがて集団で集めて組織的な歩兵として扱われていく(元の通りの仕事をする「足軽」も別に併存)。「雑兵」である。雑兵は戦場になくてはならないものと化していった。
ここに③の要素が加わる。新兵器「鉄炮」の伝来である。鉄炮は弓と異なり、武士なら誰にでも扱えて当然とは見られなかった。伝来のタイミングが100年ほど早ければまた違ったかもしれないが、武士よりも先に足軽の使用が目立っていた。
天文19年(1550)7月14日付けの畿内の公家の日記に足軽が鉄炮を使った記述がある。
「一万八千」の三好軍が上洛して、市街で幕府軍が交戦した時、「足軽100人ばかりが打ち出て、戦闘になった。三好長虎の寄騎1人が鉄炮に当たって戦死した」(『言継卿記』)というのである。
通説では、これが日本の合戦における初の鉄炮犠牲者ということになっている(個人的には異論があるが)。通説の是非は別として、鉄炮で1人犠牲者が出ただけのことが丁寧に記録されているのは注目に値する。
これら①②③の要素が重なり、やがて日本国内の鉄炮の数が急増するに連れて、もはや戦場にある武士が、現場の判断で領主別編成から〈兵種別編成〉に切り替えられる時代は終わった。
思わぬところから生じた軍事改革
この流れで武士たちは、「その場の判断で兵種を再編するのが難しくなってきた。ならば、初めから〈兵種別編成〉の軍隊にしてしまえばいいのでは?」と思い至ったらしい。
それが可能な条件は整いつつあった。
大名の直属兵「旗本」が増えていたのである。
戦国時代は、旗本増加の時代でもある。大名が国内の領主を吸収、解体して、直属化していく。しかも彼らを城下町に移住させる。これで大名が「さあ遠征だ」と連れていける兵数が増えていく。
ここに大名は、〈兵種別編成〉を制度化する。
武装と人数をその場その場で入れ替えるのではなく、あらかじめ計画的に「50人は弓、30人は馬上」と定めて、明確な人数の武装からなる部隊編成を整備してから戦争に赴くようになるのである。
そこまでは、自然の流れである。ただ、ここで誰も想定しない展開が起きてしまう。
信濃国の村上義清だ。
義清は、甲斐国の武田信玄に圧迫されて、家臣たちを大量に失っていた。そこで巻き返しを図ろうと、家臣の遺族や実力不足の人々を集め、「合図をしたらお前は弓を使え、お前はそのあと長柄の武器で突っ込め、そのあと俺たち騎馬武者が敵本陣に突撃して、信玄の首を狙う」と指示して、その作戦を実行した(乃至政彦『戦う大名行列』)。
乱暴なやり方だが、これがあと一歩というところまで成功したらしい。
二月一四日、近所の塩田原(上田市小泉字塩田川原)という地で、甲斐の武田信玄さまと村上義清どのが合戦なされました。[中略]信玄さまが戦傷を負わされました──
(『妙法寺記』天文一七年[一五四八]条)
義清が信玄に怪我をさせたのである。
しかし義清は武田軍に押されて撤退。その後、拠点を捨てて、越後国の上杉謙信を頼っていく。そこで義清は謙信に「こうやって戦いましたが、うまくいきませんでした」と自分の戦いを説明。
すると謙信は義清の話を聞いて、信玄を討ち取るならこれしかないと思ったらしく、義清の臨時編成を大胆に取り入れることにした。
義清の編成は通常の〈兵種別編成〉と違っていた。
そのオリジナリティは、練度の低い集団それぞれに兵種別の役割を担当させ、敵の総大将討ち取り一本に絞られているところにある。
決死の覚悟で編み出された苦し紛れの戦術ではあったが、実際にやってみると、武田軍は有効な対抗策を取れなかった。
謙信には、充分な兵数と資金がある。そこで、旗本にこの編成を取らせて、大規模化することで、上杉軍を「信玄討ち取り専門の軍隊」に作り変えることにした。
そこで出来上がったのが〈兵種別編成〉の状態で行列を組ませて、戦場を移動する方式の軍隊だ。
敵を見つけたら急接近し、その指揮官を討ち取りの攻撃を開始する編成である。義清と謙信の作戦には、兵種と兵種の連動攻撃という先進性があった。
後にいう「車懸り」がこれである。
永禄4年(1561)9月10日、謙信はこの隊列で、信玄実弟の武田信繁、参謀格の山本勘介、古参の室住虎光といった重要人物を討ち取り、信玄とその長男・武田義信をも負傷させた。
最終目標の信玄討ち取りこそ成功しなかったが、指揮官を討ち取る戦術として実用的であることが、広く示された。ここから東国では謙信方式の軍隊編成が模索されることになる。
陣立書の登場と普及
さて、川中島合戦の頃から「陣立書」という全く新しい史料が現れ始める。「陣立書」の定義は難しいのだが、部隊の編成または軍隊の配置を定めた設計書だと言っておこう(余談ながら、動員人数と指揮官の名前を書いているだけの史料に「陣立書」の用語を当てる例があるが、見直しの余地がある:乃至政彦「戦国期における旗本陣立書の成立について」参考)。
特に部隊編成の内訳を記す「旗本陣立書」には、それ以前の軍隊と異なる点がある。先頭に「置き盾」が設定されていないのだ。
戦場に部隊を布陣する時、普通は最前列に盾を置く。何らかの防御用具を使う。ところが〈兵種別編成〉の「旗本陣立書」にはこれが書かれていない。ここから「旗本陣立書」は移動式であって、戦場の布陣を記すものではないことが読み取れる。
これが全国的に広がっていき、豊臣秀吉の時代には、日本中の大名が、上杉謙信の「車懸り」を習得して扱うようになっていくのを、諸大名の「陣立書」に確かめられる。
江戸時代になると、この「旗本陣立書」そっくりの配置表が諸藩で大量に作られている。いわゆる「大名行列」の設計図だ。参勤交代、改易実行に使われる大名行列は、原則として〈兵種別編成〉であった。
【乃至政彦】ないしまさひこ。歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(ともにJBpress)、『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。現在、戦国時代から世界史まで、著者独自の視点で歴史を読み解くコンテンツ企画『歴史ノ部屋』配信中。
筆者:乃至 政彦