幕末維新期に現れた超巨星・島津斉彬、将軍継嗣問題の決着と率兵上京計画、その最期
2024年6月19日(水)6時0分 JBpress
(町田 明広:歴史学者)
斉彬の内乱憂慮と回避工作
老中松平忠固の工作などから、条約勅許獲得に失敗した老中堀田正睦の帰府後、安政5年(1858)4月23日に井伊直弼が大老に就任した。5月1日、13代将軍徳川家定は継嗣慶福(家茂)に決定したことを大老・老中に達したが、厳秘を宣言した。
5月2日・6月19日の両日、松平春嶽はそのことを秘した井伊に意見を求められ、継嗣は慶喜とすること、条約調印は先延ばしすることを申し入れるも、当然ながら不発に終わった。井伊は継嗣決定について、一橋派に漏れていないか探りを入れたのだ。
斉彬は、将軍継嗣・条約勅許問題で対立が激化している状況を、「外寇より内乱の方一大事」(島津久光宛、4月27日)と、体外戦より内戦の方が問題であると嘆いた。また、「もはや天下大乱相違なく」(早川五郎兵衛宛、4月28日)と、内乱勃発を危倶したのだ。
こうした中で、斉彬は幕府に建白書(5月28日)を提出した。これによると、攘夷は最もだが西欧列強と戦争になれば、大砲・砲台あるいは堅牢の軍艦が必要だが、今の日本には皆無である。戦争をしても、必勝の勝算があるだろうかと、疑問を開陳した。さらに、日本国内で争っている場合でなく、日本が一丸となって富国強兵を推進し、侵略されないような国家建設の必要性を主張した。
また、斉彬は近衛忠煕宛書簡(6月5日)の中で、攘夷実行をしようにも武備は不十分で、実現は困難であり、残念ながら条約締結はやむを得ない状況にあると説明する。そして、勅許問題をこのまま放置すれば内乱となり、西欧列強につけ込まれて植民地化される可能性もあるとして、条約勅許を懇請した。さらに、老中を始め幕閣は慶喜の将軍継嗣を望んでいると述べ、慶喜擁立への協力を求めたのだ。
将軍継嗣問題の決着と一橋派の敗北
安政5年6月7日、西郷隆盛が松平春嶽の書状を持参して帰藩し、斉彬は将軍継嗣が慶福(家茂)に決定したことを確認した。斉彬は松平春嶽宛書簡(6月9日)の中で、一橋派の敗北を受け入れ、今後の活動の自重を忠告した。また、伊達宗城宛書簡(6月11日)では、春嶽らが諦めきれずに活動し続けると、大変なことになると懸念を表明した。
6月19日、幕府は無勅許で通商条約に調印し、21日に朝廷に無断調印を簡便な宿継奉書で伝達した。これに対し、孝明天皇は激怒して譲位をほのめかし、朝幕関係は最悪の状況に陥った。22日、井伊大老は在府大名に総登城を沙汰し、条約調印を開示した。また、23日には無断調印の責任を取らせ、堀田正睦・松平忠固の両老中を罷免したのだ。
6月24日、徳川斉昭・尾張藩主慶勝・水戸藩主徳川慶篤は不時登城して、井伊大老に条約の無断調印を面責した。しかし、その真意は将軍継嗣の公表を遅らせる深謀であった。春嶽も登城し、老中久世広周に将軍継嗣発表の延期を促した。こうした一橋派の最後の抵抗もむなしく、翌25日に家茂の継嗣発表、7月5日に春嶽に隠居・屹度慎の沙汰があり、ここに、一橋派の敗北が確定したのだ。
斉彬の率兵上京計画
安政5年6月18日、斉彬は西郷に密命を与えて江戸に派遣した。この“密命=率兵上京”について、現在も議論が継続している。筆者は、斉彬の率兵上京計画は実在すると確信しており、その目的は井伊政権と対峙し、幕政改革を促して禁裏を守衛することにあり、幕府との全面対決は企図していなかったと考える。一方で、武力発動を伴う危険な賭けには相違なかった。
国光社編『照国公感旧録』では、万策尽きたと嘆く西郷に対し、秘策として率兵上京を打ち明けたとする。また、勝田孫弥『西郷隆盛伝』では、率兵上京の目的は幕府との対決ではなく、公武一和(幕政改革・禁裏守衛)であるとする。
さらに、「考証 吉井友實手記」(『鹿児島県史料 斉彬公史料』3)では、斉彬が西郷に率兵上京の構想を述べたとする。また、市来四郎談話(『史談会速記録』合本5)では、率兵上京の計画は藩の「一大機密」であり、西郷がその計画を吐露したのは岩下方平、大久保利通、吉井友実の数名に過ぎなかったと言明している。
加えて、精忠組上書(安政6年11月、『大久保利通文書』)では、万が一、将軍継嗣が家茂に決まれば内乱の様相となるので、斉彬自ら率兵上京して朝廷を守衛する考えを、西郷は斉彬から打ち明けられていた事実を陳述している。
ところで、率兵上京の名目について、「考証 吉井友實手記」では、斉彬は琉球使節の江戸参府を口実に、率兵上京を企図したとする。また、「丁巳閏五月御下国之事実」(『斉彬公史料』2)でも、安政5年8月に琉球王使節が将軍・家定の慶賀使として江戸へ参府する予定であり、実際は朝廷の密命を奉じて滞京し、大いになすべきことをする計画であったとする。
その琉球慶賀使は、8月に延期が決定し、家老・新納駿河の名で布告された。琉球使節の参府中止は、将軍家定の病気や外国船の来航が原因とされるが、実際には7月16日の斉彬急死が大きく関係していたのだ。
斉彬の最期
安政5年7月8日、斉彬は鹿児島城下南部の調練場(現鹿児島市天保山町)で軍事調練・大砲試射を視察した。調練終了後に釣りを楽しみ、帰城している。翌9日に激しい腹痛に見舞われ、10日に高熱を発し、頻繁に下痢をするなど体調が急激に悪化した。そして、食事も咽を通らない状態で衰弱し、16日に逝去した。享年50歳、法名は順聖院殿英徳良雄大居士である。
8月5日、島津家菩提寺・玉龍山福昌寺(現鹿児島市池之上町)に埋葬され。文久3年(1863)には、朝廷から照国大明神の神号をいただき、元治元年(1864)に照国神社に奉祀された。
斉彬の死因であるが、診察・治療した藩医坪井芳洲はコレラと診断している。処理が不十分な生魚を食したことに起因する、腸炎ビブリオでの死去説も存在する。いずれにしろ、長年の激務やストレスが根本にはあったのではないか。
なお、死去する直前に、久光や側近・山田壮右衛門らを枕元に呼んで、家督継承は嫡男の哲丸がまだ幼いため(当時2才)、久光かその長男忠義のいずれかとし、父斉興に伺って決め、哲丸はその順養子とすることなどを遺言した。
久光が辞退したため、家督は忠義となった。なお、順養子・哲丸は安政6年に病死している。斉彬の子どもで長生きしたのは、忠義の弟珍彦(重富島津家)に嫁した典姫のみであった。斉彬の血統は宗家ではなく、珍彦・典姫の子孫に継承したのだ。
斉彬は幕末維新期に現れた超巨星であったが、幕末の最激動期の文久期を前にして、幕末史の舞台から惜しくも退場した。もしも、斉彬がもう少し存命であったならば、「幕末維新」は違った歴史になっていたかも知れない。斉彬が成し遂げた新生日本を見てみたかったのは、筆者だけであろうか。
筆者:町田 明広