執権・北条義時の影に父・時政あり!リーダーの成功は偶然か必然か?

2024年10月16日(水)5時55分 JBpress

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います


頼朝の挙兵で運命が変わる

 北条義時は、平安時代末期から、鎌倉時代初期にかけての武将・政治家です。2022年度のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公として、一躍有名になりました。俳優の小栗旬さんが、青年期から晩年にかけての義時を演じていましたが、その演技の変遷は見事でした。

 義時は、鎌倉幕府の第2代執権(将軍を補佐し、政務を統轄した最高職。初代は、父・北条時政)として、幕府の実質的な指導者となり、北条氏専制の基盤を更に固めます。

 では、義時は、どのようにして、権力への階段を駆け登っていったのでしょうか。義時が、権力に近付くことができた第1の契機は、自らの姉の北条政子が、伊豆に流罪となっていた源頼朝と婚姻したことです。

 頼朝と政子が婚姻した時は、頼朝は流人であり、義時は流人(罪人)の義弟になったに過ぎませんでした。ところが人生とは何が起こるか分からないものです。

 治承4年(1180)8月に、頼朝が反平家の旗を挙げ、挙兵。石橋山の戦いという敗戦を経つつも、千葉の豪族たちを味方に付けつつ、鎌倉に入ったことで、頼朝だけでなく、義時の運命も変わります。

 ちなみに、父・時政、兄・宗時、そして義時も、頼朝挙兵に従っています(宗時は、石橋山の戦い直後の戦闘で討死)。姉・政子が頼朝と結ばれていなければ、頼朝が挙兵していなければ、義時は、伊豆の小豪族の次男坊として、生を終えたことでしょう。

 人生において、何が偶然で何が必然だったかということは判別が難しいことではありますが、前述の2要素(頼朝と政子の結婚、頼朝挙兵)は「偶然」の要素も強いと私は思っています。父・時政やその次男・義時はこの「偶然」を「運」(幸運)に変えて、引き寄せて、権力を握っていったと言えるかもしれません(もちろん、それは頼朝にも当てはまると言えましょう)。

 偶然(たまたま)を運に変えると聞くと、リーダーたるもの運が良くなければいけないと思うかもしれませんが、静岡銀行・豊田通商などの企業の社外取締役、文部科学省参与などを歴任した藤沢久美さんは「そうではありません」と断言しています(同氏「優秀なリーダーほどまぐれを味方にする」『ダイヤモンドオンライン』2016・2・16)。

 藤沢さんは「リーダーたちは、つねに考え続けているがゆえに、大事な情報を見逃さない」「その姿は、あたかも全身から釣り針が出ているような状態」と述べています。優秀なリーダーは「つねに事業のこと、社員のこと、組織のこと、世の中のこと、いろんなことを考えている」ので、有益な情報が次々と入ってくると言うのです。

 つまり、成功は偶然のように見えて、常に様々なことを考え続けてきたからこそ、成功を収めることができるということでしょう。頼朝挙兵の時(1180年)は、義時は17歳ですので、義時は挙兵に参加したとは言え、頼朝と共に主体的に動いたのは、父・時政です(それは、政子の婚姻にしてもそうです)。


頼朝挙兵を成功に導いた時政の発案

 『吾妻鏡』(鎌倉時代後期に編纂された歴史書)に「頼朝は時政を部屋に招き、絵図を置いて、兵士が進軍する道や、進退する場所を全て細かく指定」(1180年8月4日条)とあるのを見ても、それは明らかです。

 頼朝の挙兵に反対し、敵方(平家方)に付いた武将もいたことを思えば、時政の「選択」は、(後世から見ても)賢明と言うべきでしょう。同書によると、挙兵時、頼朝は時政だけを本心から信用・信頼していたとあります。

 北条氏は大兵力を擁していた訳ではありませんが、頼朝は縁者ということで、時政を恃みにしていたと思われます。挙兵の際、頼朝は軍勢を派遣し、平家方の山木兼隆を討つことになるのですが、その途上、時政は「山木兼隆の後見人・堤信遠は、山木の北方にいる。信遠は、優れた勇士なので、兼隆と同時に殺しておかないと、後で面倒な事になるであろう。佐々木兄弟は、堤信遠を襲撃すべし。案内人を付けよう」(『吾妻鏡』)と言って、堤信遠を攻めさせて、これを討つのです。

『吾妻鏡』のこの記述を額面通り受け取るとすると、信遠襲撃は事前の計画にはなく、時政の急な発案ということになります(急な思いつきではなく、時政としては、信遠を討つことを前々から心のどこかで考えていたとも思われます)。

 しかし、時政の発案が、頼朝挙兵を成功に導いた1つの要因と言えるかもしれません。時政が言うように、もし信遠を放置していたら、頼朝軍が山木邸を攻めている最中に、進撃してきて、頼朝軍は劣勢になっていた可能性もあります。そうしたことを考えた時、時政もまた日頃から、アンテナを張り巡らせて「考える人」だったと言えましょう。

 切迫した場面における臨機応変さも、頼朝が信頼するところだったかもしれません(成功したから良かったものの、見方を変えれば、単なる独断と言えなくもないですが)。義時が、時政という鋭敏な父を持ったことも「成功」の1つの要因とすることができるでしょう。

筆者:濱田 浩一郎

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