京都を近代化した偉人・明石博高を支えた幕末志士ネットワークとは?平野国臣と「殉国志士葬骨記」
2024年11月27日(水)6時0分 JBpress
(町田 明広:歴史学者)
明石博高の志士ネットワーク
明石博高は、錦小路頼言の門下となった関係から、三条実美や岩倉具視の知遇を得た。さらに、西郷隆盛、梅田雲浜、頼三樹三郎とも交流し、中央政局における激動の苛烈な幕末政治史を目撃したのだ。
明石自身は、幕府が結んだ通商条約を破棄し、攘夷を実行する破約攘夷運動に巻き込まれることなく、一定の距離を取ってはいたものの、即時攘夷の嵐が吹き荒れる京都に住み、運動にまい進する志士たちと交流を重ねた。なお、明石は大田垣蓮月、高畠式部などの女流歌人とも深く交遊している。
ちなみに、時期ははっきりしないものの、明石は伊藤博文と蘭医学関連で知遇を得たとあり、明治14年(1881)には伊藤を自宅に招待して、歓談している。また、明石は松方正義とも文通していた。明石の幅広いネットワークには、驚かざるを得ない。
では、明石と交流があった志士の中から、特に関係が深い人物を紹介してみよう。
梅田雲浜とは、どのような人物か
梅田雲浜(1815〜1859)は、文化12年(1815)6月7日、若狭(福井県)小浜藩士矢部氏の次男に生まれ、後に祖父の生家梅田氏を継ぐことになった。江戸に出て、崎門学(近世初期の儒学者の山崎闇斎の提唱した学問)を山口菅山に学んだ。この時、尊王攘夷に目覚めたのだ。梅田は一旦帰藩した後に京都に出向き、崎門の学塾である望楠軒の講主となり、梁川星巌や頼三樹三郎ら過激な志士たちとの親交を深めた。
嘉永6年(1853)のペリー来航時には、梅田は江戸で吉田松陰らと対策を議論しており、その足で水戸へ遊説に出かけている。また、大坂湾に突如現れたロシア使節プチャーチン率いるロシア艦隊への攘夷実行や、京都の守護ために近隣の郷士を任ずる周旋活動を積極的に行った。
安政3年(1856)、梅田は長州藩に遊説して吉田松陰と接触し、京都・奈良・十津川間の物産交易の仲介をした。実は、松陰が安政の大獄で反幕的な容疑をかけられたのが、この梅田との接触にあった。梅田は、関白九条尚忠の裁可を経ず、さらに、幕府も経由せずして水戸藩に勅諚を下すことに成功した、いわゆる戊午の密勅にも大きく関わっていた。
密勅降下の際、事前に水戸藩に内々に知らせるなど、即時攘夷運動の中心メンバーとして活躍したことは特筆すべきである。こうした経緯が仇となり、梅田は安政の大獄のスタート段階で捕らえられ、江戸小伝馬町の牢屋で獄死した。明石は、この梅田と積極的な交流をしているのだ。
頼三樹三郎とは、どのような人物か
頼三樹三郎(1825〜1859)は、文政8年(1852)5月26日、漢詩人・儒学者・歴史家である頼山陽の3男として京都に生まれた。1843年(天保14)、羽倉簡堂に同行して江戸に出て昌平坂学問所で学び、嘉永2年(1849)年に帰京した。
梁川星巌ら即時攘夷派の志士たちと交流し、安政5年(1855)の戊午の密勅を実現するため大いに志士活動を展開した。しかし、安政の大獄が始まると連座して捕らえられ、翌安政6年(1856)に江戸評定所で尋問を受け、死罪となった。
なお、江戸の即時攘夷の中心人物である儒学者の大橋訥庵によって、回向院に葬られたが、文久2年(1862)に死罪御免となり、高杉晋作・伊藤博文らによって、吉田松陰とともに松陰神社境内に改葬された。明石は、この頼とも深く交流しているのだ。
平野国臣とは、どのような人物か
最後に、明石と最も関係が深かった尊王志士の平野国臣(1828〜1864)との関係を紐解いておこう。まずは、平野について、どのような人物であったのか、触れておきたい。平野は、文政11年(1828)に福岡藩下級武士に生まれ、通称として次郎を名乗った。平野は国学、和歌、有職故実を学び、王朝の風を慕って総髪としていた。
安政5年(1858)、脱藩して上京し、安政の大獄の追及を受けた僧月照を、西郷隆盛に頼まれて鹿児島へ逃亡させた。西郷が月照と錦江湾に飛び込んだ時、平野は同船しており、救出に努めた。文久2年(1862)、島津久光が率兵上京した際、義挙を促そうとしたが上手くいかず、義挙を目指す薩摩藩士や浪士たちと即時攘夷のための挙兵を企てたものの、寺田屋事件で頓挫した。平野は福岡藩に送り返され、投獄されたのだ。
翌文久3年(1863)、罪を許されて上京し、孝明天皇の大和行幸(親征)による攘夷実行計画に参画した。その際、即時攘夷運動のリーダー的存在である、中山忠光らによる天誅組挙兵を止めようと説得にあたったが失敗し、その間に8月18日の政変が勃発した。その後、平野は七卿落の1人である沢宣嘉を奉じて、但馬生野で倒幕の挙兵をしたが、豊岡藩兵に捕らえられ、京都の六角獄舎に収容された。いわゆる、生野の変である。
元治元年(1864)、禁門の変が勃発すると、京都所司代配下の役人らは平野たち囚人が脱走し、治安を乱すことを恐れたため、平野は他の30名以上の囚人とともに斬首された。享年37歳であった。
明石博高と「殉国志士葬骨記」
明石博高の師である桂文郁は、医者として開業するかたわら、六角獄舎の獄医を務めていたため、平野を知り懇意な関係に発展していた。平野は桂が和歌の大家であることを知り、和歌を2種贈呈するなどしている。明石自身も、平野と度々談合したと証言しており、弟子とも言われている。
こうした縁から、明石は平野に特別の思いを持ち続け、墓所・遺骨調査を継続した。それについて、まとめられたものが「殉国志士葬骨記」である。編者の緒言は以下の通りである。
この「殉国志士葬骨記」は、明治42年12月に完成しており、生野銀山事件(生野の変)の首謀者、平野国臣に関する弟子の明石博高の記録で、これによって、禁門の変の時に斬首された平野を始めとする天誅組および生野の変の関係者33名の処刑の日時や様子、墓所などが判明した。明石は数十年にわたり各所を探求し、京都市上京区下立売通綿屋川東入行衛町、竹林寺に埋葬されてあることを明治40年になって初めて突き止めた。これを探索された、明石氏の労苦を謝すものである。(筆者による現代語訳)
まさに、明石の平野に対する想像を超える親愛の情が伝わってくるとともに、数十年間も平野の墓所を探し続ける粘り強い行動力には、頭が下がる思いである。いかに、明石と平野の繋がりが深かったのかが分るエピソードであろう。
明石は確かに医者・化学者・衛生学者であり、即時攘夷運動など、政局とは無縁のような存在に見えたが、実際には数多の筋金入りの尊王志士との交流が存在した。平野に対する特別な感情も相まって、発露の仕方は相違したものの、志士的精神を常に帯同していたと評価することは、明石の本質を突いているのではなかろうか。
筆者:町田 明広