学生時代は365日ラグビー漬けの日々だった…ANAファーストクラスでも提供「メゾンカカオ」創業者の意外な経歴

2025年5月23日(金)7時15分 プレジデント社

メゾンカカオの石原紳伍社長 - 撮影=今村拓馬

メゾンカカオは鎌倉に本社を構えるチョコレート・ブランドだ。2015年に創業し、ANA国際線ファーストクラスや即位の礼の各国首脳への機内手土産として採用されるなど、高い評価を受けている。創業者で社長の石原紳伍さんは、学生時代はラグビー選手として活躍、大学卒業後に入社したリクルートでは営業成績の新記録を達成したという異色の経歴の持ち主だ——。
撮影=今村拓馬
メゾンカカオの石原紳伍社長 - 撮影=今村拓馬

■小学校に配られたヴィーガンチョコレート


2025年2月14日、神奈川県茅ヶ崎市のすべての市立小中学校と県立茅ヶ崎支援学校の生徒および教職員、名古屋市立の全小学校・全特別支援学校小学部の生徒に、花の形をした個包装のチョコレートがひとつずつ配られた。総数、12万9800個。配布したのは、茅ヶ崎市今宿に工場を構える「メゾンカカオ」というチョコレート・ブランドである。


プレゼントされたチョコレートは植物性素材のオーツミルクを使ったヴィーガンチョコレートで、地球環境の保全などを訴えるメゾンカカオの社長の熱いメッセージが添えられていた。


ANAのファーストクラスで提供されたり、G20大阪サミットや即位の礼の土産物に選ばれるなど、華々しい実績を誇るメゾンカカオの社長は、石原紳伍さん(40歳)という。高校時代にラグビーの花形選手として活躍した、異色の経歴の持ち主だ。


石原さんの、一見派手な立ち回りの背後に、いったいどのような哲学が潜んでいるのか。本社のある鎌倉でお話をうかがうことにした。


■苛烈を極めたラグビー部での日々


大阪生まれの石原さんの実家は、牛のホルモンを中心とした串焼き屋を経営していた。店は毎日深夜の3時、4時まで営業しており、石原さんは弟とふたり、両親の仕事が終わるまで店の奥の休憩室で眠り、店が終わると両親と一緒に二階に上がって布団に横になるという生活を送った。文字通りの職住一致。両親が働く姿と客の笑い声が、幼少期の「色の濃い」思い出だという。


「実家の近くには鉄工場が多くて、小学校まで通う通りはいつも油が焦げた匂いがしました。ものづくりが、とても身近にある環境でしたね」


中学からラグビーに打ち込み、高校は推薦でラグビーの強豪校に入学。1年生でレギュラーの座を射止め、自他ともに認めるスター選手となった。


だが、強豪校のラグビー部の日常は苛烈を極めた。練習の厳しさもさることながら、先輩後輩の上下関係がとても厳しかった。


「僕がいた当時の話ですが、3年生にひとり、2年生にもひとり『師匠』がいて、練習が終わると、そのふたりがドロドロに汚したユニフォームから下着からスパイクから、すべてを洗濯しなければなりませんでした。師匠がシャワーを浴びている間はバスタオルを持ってシャワールームの中で待機するんです。師匠が飲むドリンクもそれぞれ5リットルずつ、毎日用意しなければなりませんでした……」


■帝京大学が「拾ってくれた」


これ以外にも不条理なしきたりがあり、1年生はグラウンドで練習が始まる頃にはヘトヘトになってしまう。それが遠因にもなって、石原さんは高校2年のときに大怪我をして試合に出られなくなってしまった。


「大学ラグビーのスカウトマンは高2の実績を評価するのですが、僕には高2の実績がなかったので、当時の強豪校だった早慶明からは声がかかりませんでした」


唯一、声をかけてくれたのが新興勢力の帝京大学だった。1年生時代の実績を評価して石原さんを「拾ってくれた」のだ。


■監督から「初代学生コーチ」の指名を受ける


大学に入っても、高2の怪我の影響は長く尾を引いた。かつてはグラウンドの空間を手に取るように把握できたが、怪我に対する恐怖心によって、空間把握の感覚を完全に失っていた。それでもなんとかレギュラーになり、複数あるチームの中の上位チームでプレーできるまでに回復した。


だが、満を持して最終学年のシーズンに臨もうというとき、思いがけない出来事が降りかかってきた。


「新4年生の中から学生コーチをひとり出すことになったから、全員が学生コーチになってもいいという覚悟ができたら、新4年生全員で監督のところへ来いというのです」


学生コーチになるということは、試合には出ないことを意味する。つまり、現役のプレーヤーではなくなるということだ。必然的に、ラグビーで実業団に就職する道も断たれることになる。


初代の学生コーチに就任することは名誉なことでもあったが、ラグビーに命をかけてきた以上、誰だって試合に出たい。進んでコーチになりたがる部員はいなかった。


「新4年生が全員集まって、毎晩2時間近く話し合いました。お前はレギュラーになる見込みはないんだからお前がコーチをやれとか、ケンカごしの議論を続けましたが、期限が来てしまったので仕方なく全員で監督のところへ行ったんです。そうしたら、石原が初代の学生コーチになれと」


撮影=今村拓馬
学生時代は365日ラグビーの日々だった - 撮影=今村拓馬

■「日本一になるために」改革に取り組む


大阪に帰省して、これまでのラグビー生活を支えてくれた両親に学生コーチの件を報告すると、母親は石原さんの目の前で号泣した。父親は「チームが日本一になるために、あらゆることをやれ」と言ってくれた。その父の言葉で気持ちの切り替えがついてからは、誰よりも早くグラウンドに出て、誰よりも遅くグラウンドを去る日々を送るようになった。


「ラグビーは自己犠牲を学ぶスポーツです。初代の学生コーチなので何をやっていいかわかりませんでしたが、日本一になるために自分はどんな役割を果たすべきかを考え抜きました」


早慶明に進学していた高校時代の仲間に頼み込んで練習を見学させてもらい、帝京に足りないメニューを洗い出した。そして、運動部にありがちな上下関係の弊害をなくすために、さまざまな改革を行っていった。背景にはもちろん、高校時代の不条理な師弟関係への疑問があった。


「帝京の寮にも、上級生が食事をした後の片づけを下級生がやるといった不文律がありました。でも、チームが強くなるには下位チームが強くなって全体の底上げをしなくてはなりません。下位チームは、1年生と試合に出られなくなった4年生で構成されているので、1年生を雑用から解放して体作りができるようにすることと、試合に出られない4年生の気持ちが腐らないようにすることが重要でした。監督の言うことは聞かなくても、選手の道を諦め、学生コーチになった僕が言うことには、みんなが耳を傾けてくれました」


撮影=今村拓馬
鎌倉にある本社で話を聞いた - 撮影=今村拓馬

■常に「チームのために何ができるか」を考える


当時の帝京はまだ「夜明け前だった」が、石原さんの1学年下には堀江翔太がいて、全国大学選手権で準々優勝、堀江の下の学年が準優勝、その翌年、石原さんが4年生だったときの1年生たちが悲願の初優勝を飾り、そこから破竹の9連覇を成し遂げる。石原さんがその礎をつくったと言っても過言ではないだろう。


ラグビーを通して学んだことは、石原さんの組織作りの基本になっているという。


「華やかなスタープレーヤーの時代も、怪我で試合に出られない時代も経験したことによって、常に、チームのために何ができるかを考えるようになれました。あくまでもチーム全員が主役であることが大事なので、ブランドを立ち上げる際にも、当時は定番でもあった自分の名前をブランド名につけるという考えが僕にはなく、ca ca oと素材への思いをシンプルにつけました」


大学卒業後、石原さんはある人物の紹介でリクルートに入社する。紹介してくれた理由は「君、目がいいから」であった。


石原さんはリクルートでも、前人未踏の記録を打ち立てることになる。


後編に続く)


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山田 清機(やまだ・せいき)
ノンフィクションライター
1963年、富山県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、鉄鋼メーカー、出版社勤務を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』(朝日文庫)、『東京湾岸畸人伝』『寿町のひとびと』(ともに朝日新聞出版)などがある。
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(ノンフィクションライター 山田 清機)

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