「お父さんごめんなさい」やなせたかしが流した10年分の涙…「あんぱん」で竹野内豊が演じた"育ての父"の偉大さ
2025年5月27日(火)12時45分 プレジデント社
WOWOW開局30周年記念「連続ドラマW 東野圭吾 さまよう刃」の完成報告会に出席した俳優の竹野内豊さん(=2021年5月13日、東京都千代田区の東京国際フォーラム) - 写真=時事通信フォト
写真=時事通信フォト
WOWOW開局30周年記念「連続ドラマW 東野圭吾 さまよう刃」の完成報告会に出席した俳優の竹野内豊さん(=2021年5月13日、東京都千代田区の東京国際フォーラム) - 写真=時事通信フォト
■「あんぱん」の優しい伯父が急死、主人公の嵩は泣き崩れる
「伯父さん、ごめんなさい。怒ってるだろうな……」
「これまで育ててもらったお礼も、何も伝えられなかった。伯父さんのこと、一度もお父さんと呼べなかった。もう会えないんだよな」
朝ドラこと連続テレビ小説「あんぱん」(NHK)の第9週1話(通算49話)で、主人公・柳井嵩(北村匠海)の伯父であり“育ての父”である寛(竹野内豊)が、亡くなった。54歳の竹野内豊が演じる寛はダンディでかっこよく、優しく子どもたちを励ます理想的な父親だと、ドラマファンにも親しまれていたが、突然の悲しい別れとなってしまった。
嵩は実の父・清(二宮和也)に早く死なれ、美しい母・登美子(松嶋菜々子)には去られ、父の兄である寛の家に預けられて成長した。そこには先に寛の養子になっていた実弟の千尋(中沢元紀)もいた。高知の町医者である寛は、医院を継がせるために2人の甥っ子を引き取ったのかとも思われていたが、絵は得意だが勉強は苦手な嵩は東京芸術高等学校へ。千尋は成績優秀だったが帝国大学の医学部ではなく法学部へ。跡継ぎにはならなくても、寛は、兄弟の決めた進路を否定せず学費を出し、精神的にも金銭的にも援助してくれた。
東京でデザインの学校に通う嵩の元に届いた「チチキトク、スグカヘレ」という電報。しかし、卒業制作の最中だった嵩は、この学校に進ませてくれた寛のためにも、と卒業制作の絵を完成させてから、故郷の高知県へと急ぐ。しかし、伯父の家にたどり着いた嵩が見たのは、既に息を引き取った寛の姿だった。
■「棺にすがって十年分の涙が出てしまったというぐらい泣いた」
「あんぱん」は、嵩のモデルである『アンパンマン』の作者・やなせたかし(1919〜2013年)の生涯と中園ミホによる脚色(フィクション)が入り交じる構成になっているが、1939年、やなせが官立旧制東京高等工芸学校図案科(現・千葉大学工学部総合工学科デザインコース)に在籍していたときに、伯父の柳瀬寛が急死したのは事実だ。
卒業制作のポスターを徹夜で仕上げてから、やなせは汽車に飛び乗って故郷の高知県に帰った。しかし、伯父は既に死んでいたという。自伝『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)によると、ドラマとは違って、伯父は布団の上に寝ていたのではなく、既に棺の中に横たわっていたそうだ。
そして、育ての父の死に目に会えず、弟の千尋から「兄貴、遅いよ」となじられたやなせは、「『お父さんごめんなさい!』ぼくは棺にすがって泣きました。十年分の涙がいっぺんに出てしまったというぐらい泣きました」と書いている(『人生なんて夢だけど』)。
■ドラマと違って、やなせたかしは「お父さん」と呼んでいた
『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)では、やなせはこう綴っている。
父というのは本当は伯父で、籍は入っていなかったから、義父でもなかった。しかしぼくはお父さんと呼んでいたし、たしかに父だった。
実子でもないぼくを望むままに東京に遊学させ、海のものとも山のものとも知れない芸術の道に進むことを許してくれたではないか。ぼくはどんなに感謝しても感謝しきれない。
そのとき、やなせは東京田辺製薬(現在の田辺三菱製薬)の宣伝部に就職が決まっていた。目指していたとおり図案・デザインの仕事に就いたわけだが、製薬会社を選んだのは、医師である伯父に恩返しをしたかったからだという。
愚かなことに、製薬会社に勤めれば薬を安く父にまわせるかもしれない、少しは役にたつだろう、と考えたのである。
「田辺製薬か、しようもない会社に入ったな」と父は(あえて父と呼ぶ)言った。
やなせたかし『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)
■高知県の紳士録で見る柳瀬寛の人柄
内科・小児科医だったという柳瀬寛は、実際にはどんな人物だったのだろうか? 地元・高知の紳士録には、こう書かれている。
柳瀬寛氏
長岡郡医師会長として時めく長岡村の柳瀬寛医師は香美郡御所村の出身である。大正元年京都医専(現在の京都府立医科大学)を卒業し高知市小高坂の佐々野病院に一年半勤務、大正三年現在の所に開業した。氏の厳父は永らく高知県属を奉職した人。柳瀬医師について何よりも特筆すべきは、兄弟愛の麗しい事である。即ち自分には子供はいないが仁術済生の一方に余力を捧げて実弟或は亡弟の遺児らを教育してまた自楽を求めぬことである。
即ち実弟正周氏(二七)を東京高千穂高商(現在の高千穂大学)に通学させて現在日本勧業銀行(現在のみずほ銀行)に就職せしめ、さらに亡弟の遺児嵩(一七)君を城東中学に通学せしめ(現在四年)ているのである。まことに医師社会内外を通じ稀に見る奇篤美談として人々を感心させている。宣(むべ)なる哉(かな)昭和十三年一月七日郡医師会長に満場一致を以て推された。趣味はただ静かなる、そして費用のいらぬ俳句のみ、朴城と号してスソノ誌の同人である。
『近代土佐人』(高知尚文社)。1939年。
国立国会図書館デジタルコレクション
■三男四女の長兄として弟や甥を養育、多趣味で宴会好きだった
亡くなる前年には地域の医師会長になっていたという。柳瀬家は300年以上続く庄屋で、寛は三男四女の長兄だった。しかし、寛の父が財産を食い潰してしまったということで、年齢の離れた末の弟や、次男の遺児であるやなせらを養育していたのも、家長としての責任感からだったのだろう。
寛は、やなせの言葉によれば「本当に良い人」で、「本をよく読む人」。高知の後免町の柳瀬医院には『中央公論』や『文藝春秋』『婦人之友』などの雑誌がそろっていたという。やなせの実父の清は新聞記者だったが、その兄である寛も読書家で、俳句をたしなむ文化的素養のある人物だったようだ。やなせは中学生時代からよく絵を描き、雑誌の懸賞に応募して入選することもあった。伯父の与えた環境が、やなせを国民的漫画家への道を歩ませたとも言える。
寛は多趣味で、オートバイにサイドカーをつけて田舎道をぶっ飛ばすので、目立っていたという。柳瀬医院の隣は酒屋で、医院には寛の友人である歯医者や教師が毎晩のように集まり、宴会を開いていた(『人生なんて夢だけど』)。あるいは、そんな生き方が寛の寿命を縮めたのかもしれない。
■やなせに「医院を継がないか」と言ってきたことも
ぼくは弟とちがって伯父の養子にはならなかったが、「お父さん」「お母さん」と呼んでいた。奥座敷と書生部屋の関係は変らなかったが、別にわけへだてなく育てられた。
しかしいくらか遠慮がちであったのは事実である。中学三年生の時に大阪、京都、東京への修学旅行があるが、ぼくは「行きたくない」と言った。本当は行きたくてたまらなかったが、修学旅行の費用を出してもらうのが心ぐるしかった。成績優秀前途有望ならいいが、その逆ではひるんでしまう。
やなせたかし『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)
正式な養子になっていた実弟の千尋は奥座敷で伯父夫婦と暮らし、やなせは玄関脇の書生部屋を与えられ、あくまで甥っ子扱い。さびしい思いもしたというが、高校生のときには伯父から「医院を継がないか」と言われた。しかし、数学が大の苦手だったやなせがその提案を断ると、伯父はあっさり引き下がり、工芸学校に進ませてくれた。
写真=iStock.com/winhorse
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/winhorse
■ドラマでは省かれた実母の家への引っ越し
「あんぱん」では柳瀬家の事情が史実に沿って描かれているが、まるっと省かれているのは寛の末の弟・正周(まさちか)の存在だ。やなせは9歳上の叔父である正周と後免町の柳瀬医院でひとつ部屋に暮らし、兄弟同然の仲だった。工芸学校の合格発表を見に行くときも付き添ってくれたのは、ドラマのように寛ではなく、東京の銀行で働いていた正周だったという。
また、東京の世田谷区ではやなせの実母・登喜子が再婚して暮らしていて、その家は偶然、正周の住居からすぐのところだった。結局、やなせは実母の家に引越し、そこから学校に通うようになったという。このあたりもドラマとは異なる。
寛は登喜子を警戒して、本当はやなせを東京に行かせたくなかったらしいが、結局、実の母と子を引き離すことはできなかった。
やなせの秘書だった越尾正子による回想録『やなせたかし先生のしっぽ』(小学館)によると、もともとは登喜子が幼いやなせを捨てるようにして寛夫妻に預けたという経緯があるのに、この頃、寛は登喜子にやなせの下宿代を支払っていたという。このエピソードからも、寛の「お人好し」な面がうかがえる。
■甥っ子たちを家に縛りつけず、自由に生きさせた
自身は家父長制の中できちんと責任を果たしつつも、甥の2人は家に縛りつけず、好きなことをさせる。毒親とは正反対のリベラルで、優しすぎる人だったのかもしれない。やなせも「田舎の開業医として激務に耐え」「五十歳の若さで天国に行ってしまったのです」と書いている(『人生なんて夢だけど』)。
自分を犠牲にしても他人のために尽くそうとした姿には、おなかがすいている人に自分の顔を食べさせるアンパンマンのイメージを重ねることもできる。
「あんぱん」では、寛が将来に悩む嵩に向かって「なんのためにこの世に生まれて、何をしながら生きるか」という、アニメ主題歌「アンパンマンのマーチ」の哲学的な歌詞(やなせたかし作詞)に通じる言葉をかけた。今後も、寛は嵩の心に大きな影響を与えた人物として、その存在は物語の中で生き続けていくだろう。
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村瀬 まりも(むらせ・まりも)
ライター
1995年、出版社に入社し、アイドル誌の編集部などで働く。フリーランスになってからも別名で芸能人のインタビューを多数手がけ、アイドル・俳優の写真集なども担当している。「リアルサウンド映画部」などに寄稿。
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(ライター 村瀬 まりも)