F3のオーバル戦“イーストサイド100”。調理用ざるも登場した各チームの創意工夫【日本のレース通サム・コリンズの忘れられない1戦】

2020年5月18日(月)15時37分 AUTOSPORT web

 スーパーGTを戦うJAF-GT見たさに来日してしまうほどのレース好きで数多くのレースを取材しているイギリス人モータースポーツジャーナリストのサム・コリンズが、その取材活動のなかで記憶に残ったレースを当時の思い出とともに振り返ります。


 今回はコリンズがこの数十年間で最高のF3レースだったと評する1戦、ユーロスピードウェイ・ラウジッツ(ラウジッツリンク)でのオーバルレース“イーストサイド100”を前後編で取り上げます。


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 このレースは私が取材してきたもののなかで、もっとも変わったレースのひとつだったことは間違いないが、世間からはほぼ完全に忘れ去られている。このレースは、ヨーロッパのモータースポーツ界に新しい未来を提供し、年に1度の素晴らしいイベントになったかもしれない。驚くべきドライバーたちが顔を揃え、この数十年間で最高のF3レースだったように思う。


 ドイツ東部のラウジッツは、世界でも魅力的な場所というわけではない。ポーランドとの国境近くにあり、広大な露天炭鉱がいくつもある。1989年の共産主義崩壊が忍び寄る前にも、地域再生策として新たなモータースポーツ施設を建設する計画があった。


 その後、1999年にアヴス(ベルリン郊外にあったサーキット)の閉鎖が決まり、旧東ドイツに新サーキットを建設しようという新たな勢いも生まれた。統一ドイツ新政府は、旧東側の成長を後押しするためのプロジェクトに資金を供給したいとも考えていたようだ。


 こうして建設された新サーキットはアヴスが閉鎖された翌年にオープンし、“ユーロスピードウェイ・ラウジッツ”と呼ばれた。ラウジッツリンクという呼び名のほうがなじみ深いかもしれない。


 ユーロスピードウェイ・ラウジッツはヨーロッパにある他サーキットと異なり、アメリカにあるサーキットをモデルに建設されたため、2マイルの“おむすび型”トライ・オーバル、その内側にロードコースを備えるレイアウトだった。


 ただ当時、ヨーロッパにはユーロスピードウェイ・ラウジッツが備える大型のオーバルコースを使用するようなシリーズやマシンはなかった。そのためサーキットのオーナーは、この新たなアメリカンスタイルのコースで開催するレースを模索する必要があった。


 最初は北米最高峰とも呼べるNASCAR招致を進めたようだが、この計画は失敗。それでもオーナーは諦めず活動を続け、チャンプカーの招致には成功し、2001年に“ジャーマン500”としてレースが開催された。


 このジャーマン500はアメリカ同時多発テロ事件が起きた9月11日の翌週に開催されたこと、そしてレース中に発生したクラッシュにより、アレックス・ザナルディが両足を切断する重傷を負ったことで、人々の記憶に留まっているだろう。しかし、今回私がふり返りたいのはジャーマン500ではない。


 ユーロスピードウェイ・ラウジッツでのチャンプカーは2003年にも開催されたが、結局ドイツのレースファンから大きな支持を得られず、3度目の開催は実現しなかった。そこでサーキットはオーバルレースが継続開催されるような道を模索した。


 そして2005年、ドイツF3選手権がオーバルコースでのレース開催に同意した。このオーバルF3戦は“イーストサイド100”と呼ばれることになった。開催初年度は地味なイベントだったが、2006年に開催規模も拡大され、主要な国際レースイベントのひとつになった。


 そして私ははるばるドイツ・ラウジッツに向かい、イーストサイド100を取材することになる。わびしい村々の間を蛇行する古びたバスに乗ってユーロスピードウェイ・ラウジッツに向かったのを今でも覚えている。


■災難続きだったサーキットへの道中


 当時の私は地図を見て、サーキットはベルリン近くにあるものだと勘違いし、レンタカーは借りず電車で向かう計画を立てた。イギリスの電車と比べて、ドイツの電車は効率的、かつ信頼できると考えたからだ。


 しかし、私が旧東ドイツへ足を運んだのはこれが初めてであり、東と西でどれだけ状況が違うのかを身をもって体験するはめになった。サーキットに向かう道中、乗っていた電車が故障し、周りを見渡してもなにもないような小さな村にぽつんと放り出されたのである。


 駅で数時間後続の電車を待ち続けたあと、ようやくは私は前述の古びたバスに乗り込むことに決めた。


 バスに乗り、自分が一体どんな状況に置かれているのかと考えにふけっていると、携帯電話がようやく圏外を脱出した。すると直後、私はローラ・カーズの広報担当者から大量のテキストメッセージが送られてきた。


 そのメッセージには当時ローラのワークスドライバーだったジョーイ・フォスターがプラクティスセッション中に時速200km以上で後ろ向きにウォールに激突、フォスターは一命を取り留めたものの重傷を負っていると記されていた。


 またローラの上層部が、私が彼らに確保をお願いしていたホテルの予約を見つけ、その部屋を息子に付き添うべくやってくるフォスターの両親に名義を変更したことも記されていた。


 つまり私は自分がどこにいるのかもわからない状況だった上に、その日泊まるはずだったホテルも失ってしまったのだ。もちろん、この時自分が泊まるはずだったホテルについて文句を言うのは自己中心的すぎると思った。フォスターがクラッシュで大きな怪我を負ったことは確かだったからだ。


 また、この時私はイーストサイド100を取材する理由についても考え直す必要に迫られていた。当時の私はローラ・カーズと多くの仕事を行っており、このときは彼らがB06/30フォーミュラ3シャシーに加えたアップデートに関する記事を執筆していたのだ。


 具体的には、そのシャシーがオーバルでどんなパフォーマンスを発揮するかを取材するはずだった。しかし、私が取材しようとしていたそのマシンはプラクティスでクラッシュしてしまったという。


 ちなみに当時のF3は“ミニF1”といった様相で、複数のシャシーサプライヤーとエンジンマニュファクチャラーが存在した。多くのパーツが認可されている一方で、当時このクラスでは技術開発の余地もまだ多く、オーバルコースをフルスロットルで走るということは、チームとマシンコンストラクターにとって特別かつ、非常に難しい技術的課題でもあった。


 その結果、テクニカルな観点で見るとイーストサイド100はバラエティに富む大会だった。ローラ、SLC、リジェは最新マシンを、最先端のダラーラF306や他の旧型マシンと競わせるために送り込んでいたのだ。


 実際のところ、F3のコンストラクターでイーストサイド100に参加するべくドイツ東部に遠征してこなかったのは、当時F3で最高のシャシーと空力パッケージを持っていると考えられていた童夢と、イギリスの選手権に集中することに決めたミゲールだけだった。


 エンジンサプライヤーも多彩だった。大部分のマシンはオペルをベースにシュピースがチューニングを行ったエンジンを搭載していたが、HWAがチューニングしたメルセデスエンジン、ソデモがチューニングルノーエンジン(これは非常に遅いものだった)、ニール・ブラウンがチューニングした無限-ホンダエンジン、トムスのトヨタエンジンといったものも存在していた。


 各チューナーはもちろん、ドライバー、チームもさまざまな主張を繰り広げており、実際どのエンジンがもっともパワフルなのかは誰にも分からなかった。


■初体験のオーバル戦に向けた各チームの創意工夫


 結局私はレースを見逃すのは惜しいと考えたので、この古びたバスでの旅を終わらせなければならなかった。なんとか泊まる予定だったホテルにたどり着くと、熱心なホテルオーナーが私にジョッキビールを奢りながら、この状況について謝罪してくれた。


 わたしはジョッキビールを(追加注文したものを含めて数杯)楽しんだ後、オーナーに進められた別のホテルを探しに向かった。最初に私が宿泊しようとしていたホテルは、ドイツやオーストリアによくある“ゲストハウス”のようなものだったが、紹介されたホテルはひどく趣のない高層ビルのような建物の中にあり、がら空きだった。


 フロントのいかめしい男性がチェックイン作業を済ませてくれ、部屋のドアまで案内してくれた。廊下は殺風景で、古い採掘機械の写真がたくさん飾られていた。照明がチラついていて、実はここが秘密警察(シュタージ)本部なのではないかと疑問に思ったものだ。


 翌朝、ようやく私はコースへ向かった。あの週末は2日間で2レースが開催されることになっており、それぞれ50kmのレース距離で競われる。イベント名のとおり、2レースあわせて“100”になるわけだ。パドックを歩くと、この週末初めてマシンを目にする機会に恵まれ、各チームがマシンをオーバル用にどう改良したかチェックすることができた。


 なかでもローラは最大限の努力をしてきたようだった。彼らは当時F3のマーケットで地盤を固め、ダラーラの牙城を崩そうとしていたのだ。チームが風洞で広範囲にわたる作業を行い、B06/30のために低ドラッグのパッケージを作り出したのは明らかだった。

ダラーラの牙城を崩そうとしていたローラは、ウイングミラー取り付け位置を変更して臨んだ


 特に注目すべきなのは、ウイングミラーを従来のコクピットの位置から、サイドポッドの端の新しい位置へ移動させていたことだ。フロントとリヤのウイングは、ストレートと、バンクのあるロングコーナーの両方で安定するように改良されていた。


 イーストサイド100にエントリーしたローラの2チームのうち、1チームだけが専用の”オーバルキット”の使用を決めたのは興味深かった。もう一方のチームは、代わりにキットにかかるコストについて不満を述べた。そのチームは週末中競争力を発揮できなかった。

イタリアのコンストラクター、SLCはシャシーを大幅に改良。ボディパッケージも2種類用意する徹底ぶりだった


 イタリアのコンストラクターであるSLCも、競争力のあるパッケージを作り出すのに大きな努力をしたようだった。彼らはシャシー自体も全体的に新しくしていた上、2種類のボディパッケージをサーキットに持ち込んでいた。


 資金が少ないダラーラのチームのひとつは、調理用のざるをエアインレットに被せることで、エアリストリクターのハウジングの影響を削減する方法を見つけたと考えた。見た目は素人のようだが、1999年仕様のF399であるそのマシンは、非常に速いことを証明した。


 当時ローラにはオーバルレースの豊富な経験があったが、その他のドライバーやチーム、シャシーマニュファクチャラーのほとんどは、オーバルでの戦いは初体験だった。


 また私がソビエトの産業をテーマにしたと思われるホテルで何とか眠ろうとしていた頃、チームにとってさらに悪いことに夜通し大雨が降っていた。


 この荒天を受けて、レースをロードコースで行う提案もされたが、翌朝は晴れたため無事にオーバルでレースが開催されそうだった。


 しかし、主催者はレース開始40分前まではトラックレイアウト変更を通知する権利を有していたため、チームによっては突然のレイアウト変更に備え、予備のパーツをマシン横に置いているような状況だった。


 結局ロードコースへの変更は行われず、この週末最初の50kmオーバル戦が予定どおりにスタートを迎えた。一部のマシンは極端なセットアップに仕上がっていたようで、ピットレーンでマシンが斜めに走っているような場面もあった。


 このレース1ではシンディ・アレマンがダラーラ・メルセデスでポールポジションを取り、その横にはローラ・オペルのフェルディナンド・クールがいた。彼のチームメイトのホーピン・タンが後ろにおり、アレマンのチームメイトのランガー・バン・デル・ザンデは彼女のすぐ後ろにいた。


 フォーメーションラップの後でグリーンフラッグが振られ、レースが始まった。そしてそのレースは、間違いなく私がそれまでに見たなかでも最高のレースのひとつだった。


 2台体制で参戦し、しっかりと統率されていたチームは、すぐにそのアドバンテージを発揮した。ドライバーたちは北米モータースポーツを見て学習してきたのか、チームメイト同士でスリップストリームを使うようになり、1台で参戦しているチームは不利になって集団の後方の順位を争うことになった。


 ニコ・ヒュルケンベルグのようにワークスのリジェを駆るドライバーは、予選で速いマシンを持っていても、集団の前に出ていけるとは限らなかった。ドライバーに適切な指示を与えていないチームは、SLCのドライバーがそうだったように苦戦した。彼らは協力して戦おうとせずに、結果として順位を落とした。


 それはとてもスリリングで魅惑的なレースで、私は何度首位が入れ替わったのかフォローしきれなくなってしまった。最終的にローラのホーピン・タンが、アレマンとバン・デル・ザンデに僅差で勝利した。ダラーラとのバトルでノーズとフロントウイングを損傷したヒュルケンベルグを含め、多くのドライバーが軽い接触でマシンにダメージを負っていた。


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サム・コリンズ(Sam Collins)
F1のほかWEC世界耐久選手権、GTカーレース、学生フォーミュラなど、幅広いジャンルをカバーするイギリス出身のモータースポーツジャーナリスト。スーパーGTや全日本スーパーフォーミュラ選手権の情報にも精通しており、英語圏向け放送の解説を務めることも。近年はジャーナリストを務めるかたわら、政界にも進出している。


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