「恋の王者」とされる歌人・在原業平、決して不遇ではなかった意外な実像とは『伊勢物語』のなかの確実な史実

2025年4月25日(金)6時0分 JBpress

(歴史学者・倉本 一宏)

日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。この連載では藤原氏などの有名貴族からあまり知られていない人物まで、興味深い人物に関する薨卒伝を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像を紹介します。今回は『日本三代実録』より、歌人としても知られる在原業平です。

*この連載(『日本後紀』『続日本後紀』所載分​)をまとめた書籍『平安貴族列伝』が発売中です。​


元皇親としては、順調な歩みだったが…

 前回(「代々文才に恵まれ学者や歌人を輩出した大江氏、その主流となった大江音人の、能力で出世し公卿になった異例の生涯」)、在原業平(ありわらのなりひら)の名前が出たついでに、超有名人である業平について語ることとしよう。『日本三代実録』巻三十七の元慶(がんぎょう)四年(八八〇)五月二十八日辛巳条は、業平の卒伝を載せている。

従四位上行右近衛権中将兼美濃権守在原朝臣業平が卒去した。業平は、故四品阿保(あぼ)親王の第五子で、正三位行中納言行平(ゆきひら)の弟である。阿保親王は桓武(かんむ)天皇の女である伊登(いと)内親王を娶って、業平を生んだ。天長(てんちょう)三年、親王が上表して云ったことには、「无品高岳(たかおか)親王の男女は、先に王号を停めて、朝臣姓を賜りました。私の子息は、未だ改姓に預っていません。既に兄弟の子として、どうして同列の差を異にしましょうか」と。ここに於いて、仲平(なかひら)・行平・守平(もりひら)たちに詔して、姓在原朝臣を賜った。業平は、体貌(体つきや顔)は閑麗(雅やかで麗しい)であった。放縦(気ままなこと)であり、(法度に)拘わらなかった。ほとんど(漢籍の)才学は無かったが、善く倭歌を作った。貞観(じょうがん)四年三月に従五位上を授けられ。貞観五年二月に左兵衛佐に拝任された。数年にして左近衛権少将に遷任された。ついで右馬頭に遷任された。位階を加えられて従四位下に至った。元慶元年に遷任されて右近衛権中将となった。明くる元慶二年に相模権守となり、後に美濃権守に遷任された。卒去した時、行年は五十六歳。

 弘仁(こうにん)元年(八一〇)の平城(へいぜい)太上天皇の変(薬子[くすこ]の変)によって皇太子高岳親王が廃され、その子の善淵(よしふち)と安貞(やすさだ)は臣籍降下して在原朝臣姓を賜った。一方、阿保親王は変に連坐して大宰権帥に左遷された。天長元年(八二四)に平城が死去した後に赦されて入京した。しかし、承和(じょうわ)九年(八四二)に皇太后橘嘉智子(たちばなのかちこ)に封書を送り、承和の変の発端を作ったものの、その直後に急死してしまった(倉本一宏『皇子たちの悲劇』)。

 阿保親王は天長三年(八二六)に子息三人の臣籍降下と在原朝臣姓賜与を願い出た。この三人はすでに成長している二男から四男までで(長男は『在原氏系図』によれば早世したのか兼見王となっている)、まだ数えで二歳の五男業平は、この中には含まれていないが、「仲平・行平・守平等」の「等」に含まれているのかもしれない(まだ名前が付いていなかったか)。なお、行平は後に中納言に上っている。

 業平は天長二年(八二五)の生まれ。兄弟のなかで、業平のみ、生母がこの卒伝によって伊都(いと/伊登)内親王とわかっているが、他の兄弟のなかにも伊都内親王から生まれた者がいたかもしれない。この伊都内親王というのは桓武天皇の第八皇女で、生母は藤原平子。

 この連載の二回目に登場した藤原継縄(つぐただ)の孫、七回目に登場した乙叡(たかとし)の女である。百済王明信と桓武天皇をめぐる乱脈な関係は、そこで述べた。その血を受け継いだ業平の数々の逸話や性格も、その影響であろうかと勘ぐってしまう。

 この卒伝や六国史の記事以外に、『三十六人歌仙伝』という伝記も含めて、業平の官歴を復元すると、承和十二年(八四五)、二十一歳の年に左近衛将監に任じられ、承和十四年(八四七)に二十三歳で蔵人に補された。そして嘉祥二年(八四九)に二十五歳で従五位下に直叙された。元皇親としては、順調な歩みと言えよう。ただし、文徳(もんとく)天皇の時代になると、なぜかまったく昇進が止まってしまった。


『伊勢物語』のなかの確実な史実

 その後、清和(せいわ)天皇の時代になるとふたたび昇進を始め、貞観五年(八六三)に左兵衛権佐、貞観六年(八六四)に左近衛権少将、貞観七年(八六五)に右馬頭に任じられ、貞観十五年(八七三)には位階も従四位下まで上った。陽成(ようぜい)天皇の時代、元慶元年(八七七)に従四位上右近衛権中将に上ったが、これが極位極官ということになり、後世、「在五中将」と称されることとなった。

 なお、あまり知られていないが、元慶三年(八七九)には五十五歳で蔵人頭に補されている。清和天皇の女御で貞明(さだあきら)親王(後の陽成天皇)を産んだ高子(たかいこ)の推挽との見方もある。

 このままいけば、やがて参議に昇進する可能性も高かったのであろうが、翌元慶四年、五十六歳で死去してしまった。

 というのが、史実のみで語った業平の生涯である。意外に思われるかも知れないが、業平はまったく不遇であったわけではない。業平を完全なアウトサイダーの「恋の王者」と考えるのは、『伊勢物語』に拡大構築されて語られた「昔男」をすべて業平と考えてしまっているせいである。

『伊勢物語』のなかで確実な史実と認められるのは、紀名虎(なとら)の子有常(ありつね)の女を妻としたこと、文徳天皇の第一皇子で名虎の女静子(しずこ)所生の惟喬(これたか)親王に親近したことなどに過ぎないのであって、藤原高子との恋を藤原氏に引き裂かれたとか、東国に下向して武蔵国まで至ったとか、惟喬親王の同母妹である恬子(てんし)内親王と推察される伊勢斎宮と一夜を過ごしたなどは、すべて伝説的な創作である(倉本一宏『旅の誕生』)。そもそも、『伊勢物語』の歌のなかで確実に業平の作と認められるものは少ないのである。

 業平の実像として史実と認められるのは、この卒伝の「体貌は閑麗であった。放縦であり、拘わらなかった。ほとんど才学は無かったが、善く倭歌を作った」というものと、『古今和歌集』仮名序の「在原業平は、その心が余って言葉が足らず、萎んだ花の、色がなくて匂いが残っているようなものである」というものである。

 なお、業平の歌は『古今和歌集』に、撰者を除くと最高の三〇首が採られており、漢詩に圧倒されていた和歌の伝統を支え、歌道復興の気運をつくった功労者であることは確かであろう。「小倉百人一首」にも採られた代表作「ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くゝるとは」が落語「千早振る」の素材となったり、カルタ取りを描いた漫画やアニメ・映画の題名が「ちはやふる」だったりするのも、業平の遺徳であろう。

 紀有常女から生まれた棟梁・滋春、棟梁の子・元方も、みな歌人として知られる。

 業平に関わる伝説地は全国各地に伝わっている。京都市中京区の業平邸跡(かつてよく泊まったホテルギンモンド京都や御所八幡宮がある)や、奈良市法蓮町の不退寺が業平の開基になるものというのは、まだ多少の信憑性があるが、各地の「業平生誕の地」や、『伊勢物語』に登場する場所の故地となると、もう笑うしかない。ただし、三河の八橋や駿河の宇津の山、武蔵の隅田川など、後世の文学作品に数多く登場することから考えると、『伊勢物語』と業平の影響力は絶大なものだったのであろう。

筆者:倉本 一宏

JBpress

「意外」をもっと詳しく

「意外」のニュース

「意外」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ