昭和46年発売「カップヌードル」が、当時の若者に刺さった理由とは?「あさま山荘事件」では、機動隊員が湯気を立てながら啜る姿がブラウン管に…

2025年5月7日(水)12時30分 婦人公論.jp


(写真提供:Photo AC)

大阪・関西万博の開幕に伴い、1970年に開催された大阪万博にもたびたびスポットライトが当てられています。そんななか、人気雑誌『昭和40年男』創刊編集長の北村明広さんは、大阪万博後の昭和46年以降を「昭和後期」と定義し、この時代に育った人たちを「次々と生み出されたミラクルに歓喜しながら成長した世代」だと主張します。今回は北村さんの著書『俺たちの昭和後期』から一部を抜粋し、再編集してお届けします。

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アメリカと切っても切れないカップヌードルの登場


昭和46年9月18日、『カップヌードル』が世に放たれた。日清創業者の安藤百福は実業家でありながら、技術開発者であり発明家だ。

明治43年に生まれ、終戦を迎えたのが35歳だった。

敗戦後の食糧難に心を痛めた。闇市で見たラーメンの行列に、誰でも気軽に食べられるラーメンの開発を思いつく。が、戦前よりの実業家だった安藤は自身の事業を優先し、ラーメンの開発に手をつけることはなかった。

時は流れて昭和32年、自身が理事長を務めていた信用組合が破綻して財産の全てを失う。だが本人曰く、失ったのは財産だけで経験があると、一念発起して即席ラーメンの開発に没頭する。明治生まれの強さか、敗戦経験からくる負けじ魂か。

翌年、昭和33年8月25日に商品化にこぎつけた。昭和後期世代に知らぬ者はいないだろう、『チキンラーメン』が発売となった。昭和中期の「もはや戦後ではない」宣言後だ。

家事の苦労を軽減する。気軽に栄養が取れる。すぐおいしい。

豊かな暮らしを求め始めた社会と合致させるように、情熱と執念を注ぎ込んだ発明であり商品だ。

『カップヌードル』が発売


『チキンラーメン』は『カップヌードル』開発へと繋がってゆく。

欧米進出を狙った安藤は、アメリカ視察の現場で『チキンラーメン』を紙コップに割り入れて湯を注ぎ、フォークで食べる光景を目撃する。昭和41年だった。これに着想しカップヌードルの開発に取りかかったのだ。

5年の月日が流れ、全く新しい商品の発売となった。

『カップヌードル』だ。

起点となった『チキンラーメン』は、敗戦の貧しさ、闇市の混乱から生まれた。発売当時の『チキンラーメン』のポジションは、苦難を乗り越えて生活向上を目指す色が滲む。カラフルとはいえない。

だが『カップヌードル』は全く異なる。カラフル志向に変わってゆく若者たちに、ぴたりとシンクロした。

一見すると無駄と言える“カップ”と“フォーク”が付属された。当時としては高額で強気の100円の値付けも含み、これを余裕と呼べばどうだ。

銀座は復興シンボルのひとつだった


『チキンラーメン』と『カップヌードル』は、昭和中期と後期の違いを如実に表している。

当初苦戦を強いられた『カップヌードル』だが、安藤はマクドナルド同様銀座に商機を見出した。歩行者天国で試食販売をスタートさせ、多い日には2万食もさばいた。

立ったままフォークで啜る行儀の悪さも、ハンバーガー同様に若者たちの作る時代の波が反論を消し込んでゆく。

私事ながら、銀座が歩行者に開放されると知った親父の喜びようを強く記憶している。始まったのは昭和中期の最終年の昭和45年8月2日で、大阪万博の開催期に重なる。銀座だけでなく、新宿、池袋、浅草が対象となった。

戦前より文化の中心だった銀座は、戦中に大きな空襲を2度も受けた。戦後は多くの老舗店舗がGHQによって、「PX(進駐軍専用売店)」として接収もされた。

昭和7年に生まれ、敗戦と真っ直ぐに向き合い、戦後日本のミラクルを喜んだ親父は銀座が大好きだった。戦中戦後はさぞ悔しさを噛みしめただろう。

今考えれば、彼らにとって銀座は復興シンボルのひとつだったのだ。その大通りを歩けるのだと、子供のような微笑みで息子に語りかけたあの日が忘れられない。

あさま山荘事件と『カップヌードル』


『カップヌードル』は不思議な運命もまとう。

発売翌年、昭和47年2月19日に勃発した、あさま山荘事件時に機動隊員に配布されたのだ。氷点下では弁当が凍ってしまう。とにかく極寒であり、大いに活躍した。日本中から注目を集めた現場の10日間にわたった中継に、湯気を立てながら啜る姿がブラウン管に映し出された。期せずしての大プロモーションだ。


(写真提供:Photo AC)

左翼イデオロギーが、70年安保を経て、わずかずつ鎮静へと向かい始めたのも昭和後期元年である。その翌年に起こった、くすぶる過激派5人と国家の対立は、死者3名と重軽傷者27名を出す惨事となってしまった。

そもそもアメリカへの対応に端を発したイデオロギーで、その決起のひとつがあさま山荘の立て籠もりだ。ここを舞台にして、カップの麺をフォークで立って食べる、アメリカナイズされた新しい商品のプロモーションが同居した。なんとも皮肉な話ではないか。

他方結果として、イデオロギーの減衰に拍車をかける事件になった。

ゲバ棒とヘルメットよりもナウへと向かうヤング


先端をいく若者たちを、ナウでヤングと表現したのは昭和50年頃だが、昭和46年の若者たちの意識に新しい何かを常に求める意識が急速に高まったはずだ。万博の成功は大きかったと睨んでいる。

ヤングはナウを強く求め、それはゲバ棒とヘルメットより魅力的に決まっている。ヤングにまるで寄り添うがごとし、アメリカンテイストがナウく幅を利かせていく。

アメリカ文化をそのまま輸入したマクドナルド。

アメリカの強い影響を受けて生まれた『カップヌードル』。

それまでの日本になかった2大エポックだ。

銀座発の昭和後期フードカルチャーは、今も輝きを失わず君臨する。これが昭和後期元年だったことは、運命的だし象徴的でもある。いくつも連なった背景が、まるで集約されるようにして新しい文化を後押しした。

※本稿は、『俺たちの昭和後期』(ワニブックス)の一部を再編集したものです。

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