シュールな世界遺産…中世ハンガリーの牧畜文化の原風景が残る大平原、1000年の時を遡り、人と動物、自然が共生

2024年8月6日(火)8時0分 JBpress

TBSの人気番組「世界遺産」の放送開始時よりディレクターとして、2005年からはプロデューサーとして、20年以上制作に携わった髙城千昭氏。世界遺産を知り尽くした著者ならではの世界遺産の読み解きと、意外と知られていない見どころをお届けします。

文=髙城千昭 取材協力=春燈社(小西眞由美)


ヨーロッパでモンゴルの大平原に出会う

「世界遺産を知れば、その国が分かる」……こんな格言があります。

 今回紹介する世界遺産は、「ホルトバージ国立公園:プスタ(大平原)」です。「プスタ」と呼ばれるハンガリーの大平原なのですが、自然遺産ではなく文化遺産として選ばれています。 

 なぜかというと、1990年代に新たにその価値が評価されるようになった「文化的景観」、いわば「自然と人間の共同作品」という登録基準(10の基準がある)が認められた世界遺産なのです。ここでは、騎馬の民が牛や羊を追い、一面の草原を駆けぬけてゆきます。中央ヨーロッパなのに、ここはモンゴル? そんな錯覚に陥るほど、自然を活かしつつ人間が手を加えることで、調和のとれた風景を創りだしています。

 地平線の彼方、かげろうの先に真っ赤な太陽が沈んでゆきます。大地に「イ」の字型のシルエットを描き出すのは「はねつるべ井戸」。かたわらで土煙をたなびき、数十頭の灰色牛が牧舎へと急ぎます。サルバドール・ダリの髭を想わせる牛たちの立派な角が、小刻みに揺れ重なり、その風景はシュールで、見る者の現実感を失わせます。

 これらは実際に私がホルトバージ国立公園で目にした光景で、こんな風に詩的に語りたくなるのがプスタなのです。

 中央アジアに暮らしていた遊牧の民マジャール人(ハンガリー人は自らをこう呼ぶ)が、ドナウ川中流域の大平原に初めて足を踏み入れたのは9世紀でした。テントを携え牧草地を求めて、西へ西へと旅をつづけてきた彼らがたどり着いたのは、ユーラシア大陸の一番西にある大平原。その先にはアルプス山脈がそびえています。マジャール人はこの大平原を安住の地と定め、牛や羊を放ち、馬とともに暮らし始めます。

 その頃には森もありましたが、やがて木々を伐採し尽くしてしまうと川が氾濫し、その水が引かず湿地帯になります。19世紀の治水工事で改善されますが、今度は塩が吹きでて農耕に不向きな草原に変わってしまいました。「プスタ」とは本来、「荒れ地」を意味しているのです。

 西暦896年にハンガリーを建国したというマジャールの7部族。以来、彼らの1000年を超えるハンガリー牧畜文化の姿を留めているのが、ここホルトバージ国立公園です。ヨーロッパ大陸の中でひときわ異彩をはなつ光景は、20世紀、民族固有の伝統が失われつつある中で再発見され、ハンガリー人の「心の故郷」になりました。

 人間の営みが悠久の時をかけて作り上げた風景。どうです、まさに文化的景観そのものではありませんか? 


騎馬民族のライフスタイルを体感できる

 米作りを止めれば棚田はただの石垣に変わり、やがて崩れ去るのと同じで、プスタも人間の営みがなくなれば、単なる荒れ地になり果てます。ホルトバージ国立公園が貴重なのは、今なおマジャールの原風景が受け継がれていること。観光でも堪能できる、騎馬民族のライフスタイルを3つ紹介しましょう。

1.サーカスの曲芸?“お座り”する馬

 一口に牧童と呼びますが、プスタでは飼育する家畜によってそれぞれが専門職で、身にまとう伝統衣装も呼び名も異なります。馬飼い「チコーシュ」は、藍色のゆったり広がるズボンとブラウス。そこに黒のチョッキを羽織り、反り返ったつば広のフェルト帽をかぶります。その姿は抜群のカッコよさ!馬車にゆられて大平原ツァーにくり出すと、チコーシュたちが馬にまたがり、鞭を宙にふるって“パーンパーン”と音を立てて登場します。

 見所は、彼らの馬を操る技。なんと馬をねんねさせ、次にお座りをさせます。かつては、これが草原で敵から身をかくす術だったとか? お座りする馬など世界中探してもいないのでは。騎馬民族の誇りここにあり。

2.ハンガリー原産の古代種、ラツカ羊

 どこまでも続く平原に、絶妙のアクセントを打つのが羊小屋。湿地や川辺に自生する葦で葺いた巨大なかやぶき屋根が、地面まで伸びているのです。まるで縄文時代のタテ穴式住居のよう。さらに、大平原に200か所以上もある「はねつるべ井戸」。長いさおの一端に桶(つるべ)をつるし、反対側に重りをつけテコの原理で水を汲み上げます。

 長いグルグルに捻じれた角が特徴的なラツカ羊は、騎馬民族がこの地に一緒に連れてきた古代種といわれます。その肉を食い、羊毛を刈り、フェルト生地にもなったラツカ羊は、マジャール人にとって大切なパートナーでした。けれども現在、ホルトバージで飼われる羊の大半は、純白の羊毛が自慢のメリノー種に代わりました。希少なラツカ羊をお見逃しなく!

3.大鍋の煮込みグヤーシュと灰色牛

 お揃いの白いズボンとブラウスで身を固めている牛飼い「グヤーシュ」。彼らが葦で囲った小屋に大鍋を吊るして、牛肉をパプリカで煮込んだ料理も「グヤーシュ」と呼ばれるようになりました。見た目は真っ赤ですが辛くなく、ほのかな甘みを感じる極上の具たっぷりスープです。

 水牛にも似た長く尖った角をもつ灰色牛は、プスタで品種改良され、ハンガリーを肉牛の一大生産国にしました。最盛期には年間20万頭もが西ヨーロッパへと運ばれ、街道のところどころに牛追い人に食事とベッドを与えるチャールダ(旅籠屋)が作られました。ここで生まれたハンガリーの大衆音楽が、チャールダーシュです。その情熱的な調べは、民族楽器ツィンバロムの音色とともに、人々を大平原への郷愁へと駆りたてるのです。

 マジャール人の原風景になったプスタ。その典型的な姿をのこすホルトバージ国立公園ですが、大平原で牧畜を営みつづけるのは200世帯(2018年現在)。代々つづいた羊飼い「ユハース」の家系でも、あと継ぎがなく途絶えてしまった家があるといいます。放牧をしないと、自然のバランスが崩れてしまうプスタの未来は、ひとえに牧童たちのライフスタイルに委ねられているのです。

 時を1000年さかのぼり、中世のハンガリー社会にさ迷いこんでみるのはいかがでしょうか? 6月頃に行われるホルトバージ乗馬まつりは、牛飼い・馬飼い・羊飼いが勢ぞろいし、牧畜に欠かせない技術を競いあう年に一度の大会です。牧童たちの技や姿が一挙にみられる最高のチャンスかもしれません。

 ただし初夏のプスタは、太陽が痛いほど照りつけ、土埃は舞いあがります。春の新緑、冬には雪と、季節ならではの変化がある大平原。旅立つ季節は、くれぐれも慎重に!

※プスタ観光ツァーや乗馬まつり等の内容や日時は、年・季節ごとに変わります。

※旅行に行かれる際は外務省海外安全ホームページなどで現地の安全情報を確認してからお出かけください。

https://www.anzen.mofa.go.jp/

筆者:髙城 千昭

JBpress

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