「私は女だから死刑はないんです」18歳下の不倫相手と共謀し夫を殺害、“金と色欲にまみれた毒婦”と呼ばれ…戦後初めて死刑になった女の“最期の姿”
2025年5月11日(日)11時0分 文春オンライン
〈 「人間と思わず、犬か猫を殺すつもりでやるのよ」出刃包丁を突き刺してえぐり、死体は床下に…「悪魔」と呼ばれた女が隠していた“もう一つの殺人”《ホテル日本閣事件》 〉から続く
いまから60年以上前に起きた「ホテル日本閣殺人事件」。犯人の小林カウは、夫ら3人を殺したとして戦後初めて死刑が執行された女性で、「日本最大の悪女」「毒婦」と呼ばれた。ただ、彼女が歩んだ人生を振り返ってみると、はたしてどれだけの悪女・毒婦だったのか……。もしその“称号”通りだとすれば、そうした人格はどのようにしてつくられたのか?

当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は適宜書き換え、要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全3回の3回目/ はじめ から読む)
◇◇◇
下野新聞(以下、下野)は3月2日付で次のように報道。事件は新たな展開を見せる。
9年前に亡くなっていた夫も、カウが毒殺したと判明
〈 夫も毒殺したか、小林カウ 終戦直後、自殺(病死の誤り)で葬る
塩原温泉のホテル「日本閣」生方さん夫妻殺しの主謀者、小林カウ(52)を引き続き追及している県警捜査一課強行班は、カウが終戦後間もなく死別したという夫・秀之助さん(当時埼玉県熊谷市に居住)まで毒殺した疑いが濃くなったことから、2日、大森部長刑事をカウの出身地である熊谷市に派遣。埼玉県警と熊谷署の協力で“第三の殺人”の捜査に乗り出した。
秀之助さんの近親者という熊谷市の人からこのほど捜査本部に舞い込んだ投書によると、秀之助さんは32年前、カウと結婚。熊谷市で自転車商を営んでいた。カウも新婚早々から持ち前の色と強欲であくどい商売をしていた。戦後間もなく秀之助さんが急死。死因に不審な点も多くあったが、戦後のどさくさで単なる自殺として片づけられてしまった。しかし、秀之助さんの体には全身に紫斑があり、毒薬を飲まされたのに間違いないという情報だった。〉
公判でカウの共犯とされた元警官の弁護人だった大貫大八の『ある裁判の断層』(1967年)によれば、結婚当時の秀之助の商売は順調にいっていたようだが、貸し倒れなどが発生。店をたたんで上京し、その後、千葉県に移っていろいろな商売をしたすえ、熊谷に戻ってきた。終戦後は自転車、タイヤのブローカーをしていたという。翌3日付で下野は熊谷市に派遣された刑事の報告内容を報じた。
1952(昭和27年)に死亡した秀之助の死亡診断書を書いた医師は、「毒物死の時に出る紫斑もなかったし、苦悶の症状もなかった。頸動脈が大きく動き、脈拍が緊張していたことから、死因は脳溢血によるものだった(と判断した)」と証言した。しかし、近所の人は「ものすごい苦悶の表情だった」と話したという。記事には元警官が仮名で登場する。
〈 カウは秀之助さんの生前から男出入りが絶えず、「商売の支払いは全て“体を提供して済ませ”、丸々もうけていた」とうわさを立てられるほど。住居地区担当だったN巡査(35)を秀之助さんの死後3日目に自宅に連れ込み、同棲生活をしていた。上司の耳に入り、N巡査は1952年11月に退職したが、以後はいよいよ周囲の目をはばからなくなり、Nに大学生の格好をさせ、自分は厚化粧をして夫婦気取りで街を歩いていた。しばらくして娘(28)を東京へ住み込みで働きに出し、家を50万円で売却。菓子などを作っていた工場は4つに仕切って人に貸し、自分は市内の姉の嫁ぎ先に転がり込んだ。Nとも別れ、姉と辛子漬けなどの事業を起こし、自分は販売を担当して信州、東北、栃木方面の温泉地に卸して歩いた。〉
年下の警官と共謀して夫殺しを実行
3月13日、カウと大貫光吉は日本閣の主人・生方鎌輔とウメ夫婦の殺人、死体遺棄容疑で起訴。そして4月13日付下野は「小林カウ・夫殺しを自供 当時の警官を逮捕 共謀して青酸カリ盛る」と報じた。県警捜査一課の強行班長が追及した結果、「カウは12日に至り、『当時埼玉県警熊谷署の地区担当だった情夫の巡査・中村又一郎(34)と共謀して秀之助を毒殺した』と自供した」「同夜8時50分、熊谷市の自宅で元巡査・中村を共犯の疑いで逮捕した」。
具体的には「中村と親しくなって肉体関係を結び、邪魔になった秀之助を殺そうと計画。(昭和)27年10月2日午前10時ごろ、風邪で寝ていた秀之助さんの飲み薬に青酸カリを入れて毒殺した」という。これは旅館「日本閣」夫婦を殺した「日本閣事件」とは区別して、「熊谷事件」と呼ばれた。
下野などにはカウと中村が観光地で馬に乗っている写真が添えられている。中村はカウの18歳下だった。同じ紙面では、ソ連のガガーリンが世界初の宇宙飛行に成功したニュースが大々的に報じられていた。中村は「非常にハデな女関係 金を巻き上げ殴るける」(4月14日付下野)、「カウも顔負けの色欲」(同日付栃木)などと書かれるが、一貫して無罪を主張。公判でも大きな争点となる。
「日本閣事件」の初公判は1961年4月18日。19日付下野の「雑観」記事はこうだ。
〈 本県犯罪史上まれにみる“毒婦裁判”は開幕したーー。この日午前3時、宇都宮市の婦人グループ4〜5人、少し遅れて矢板市の婦人グループが準急列車で駆けつけるなど、宇都宮地裁は続々押しかける傍聴者で夜明け方までには早くも定員の85人を突破。開廷直前には、入りきれない数十人が法廷を取り巻くという地裁の新記録。色と欲で男を操り人形のように動かし、虫けらのように殺した小林カウを一目見たいという人たちだった。
看守に付き添われて大貫、カウが相次いで入廷。大貫は坊主頭に紺の背広、手に数珠を掛け、傷心の様子だった。和服に派手な道行きコートを羽織ったカウは、満廷の視線にも少しも悪びれず、報道陣のカメラを拒否するなど、落ち着き払っていた。〉
2人は起訴内容を全て認めた。法廷ではカウのめいの供述調書から、殺害前に2回にわたって、カウが鎌輔の酒と味噌汁に塩酸を入れて毒殺しようとしたことが明らかにされた。新聞の見出しは「鬼女 尋問にも冷然」(栃木)、「殺し屋(大貫)の手にジュズ」と毒々しかった。
以後、公判は30回以上にわたり、後半は熊谷事件も併合して審理が続いた。この中でカウは「犯行後、『金、金』とせびる大貫をいっそ殺してしまおうと思って“第三の男”に相談したが断られた」と証言。鎌輔殺しの動機については次のように供述した。
〈「元警察官の中村に捨てられてから急に金銭欲が出た。しかし、もうけた金約200万円を鎌輔さんの口車に乗せられて日本閣につぎ込み、無一文になってしまったのが憎らしかった。さらにウメさん殺しや放火計画は大貫と私の共謀と口外するようになったので生かしておけなくなった」〉
日本閣が全国的に有名になり、観光客も
事件は週刊誌や雑誌にも取り上げられて話題になった。
「全国に知らされた日本閣は塩原温泉の名前を全国規模に底上げさせ、旅館組合が積極的な宣伝活動に取り組んだため、予約客の足は早くから伸び、例年の3割増しとなっていた。観光バスのガイドは塩原温泉に入ると、まず最初に(旧塩原)御用邸(1904〜1946年)を指さし、次に尾根に屹立する天狗岩(塩原の景勝地)を説明していたが、事件後は2番目に日本閣を指さすようになった。観光客はどっと沸き、バスの片側に寄ったり、中にはバスを降りて橋を渡ってすぐ近くまでのぞきに行く者もいた。
やがて日本閣の玄関口にネオンを灯したスタンドバーが店を開き、町の人々はのぞき客相手に開店したとうわさした」
吉田和正『誘う女 ドキュメント日本閣殺人事件』(1994年)はこう書いている。
翌1962(昭和37)年12月27日の最終弁論でカウの弁護人は「カウは10年間も働いてつくった約250万円を鎌輔にうまく引き出され、利用されたまでで、かえって鎌輔の方が悪人」と弁護した。しかし、1963(昭和38)年3月18日の一審判決でカウは死刑。大貫は「カウに金と色で操られた」として無期懲役に。
中村については「共謀の疑いは濃いが証拠不十分」として無罪を言い渡した。19日付下野によれば、判決はカウに関して「生来勝気で、物欲には異常な執着を持ち、満たすためには手段、方法を選ばず、他人の犠牲なども全然意に介さないという情性欠如の精神病的性格の持ち主」と断じ、「3人の人命を奪った罪は全く情状酌量の余地がない」と言い切った。同紙の社会面主見出しは「カウの毒婦ぶりを浮き彫り」。
最後に裁判長は「カウと大貫には『み仏の意志にすがれ』という言葉を贈る」と述べた。併用写真を見ると、判決言い渡しの瞬間なのか、中村は顔を上げているが、カウと大貫は両手で顔を覆っている。
「私は女だから死刑はないんです」と言っていたが…死刑が確定
裁判は双方控訴したが、1965(昭和40)年9月15日の控訴審東京高裁はカウと大貫の2人ともに死刑。中村も無罪判決を破棄して殺人罪で懲役10年を言い渡された。さらに事件から5年後、1966(昭和41)年7月14日には最高裁第一小法廷が3人の上告を棄却。カウと大貫の死刑が確定した。
獄中のカウについては詳しい記録がある。大塚公子『あの死刑囚の最後の瞬間』(1992年)と堀川惠子『教誨師』(2014年)。それによれば、「人を三人も殺し、四人目の殺人の計画も考えていたカウは、逮捕された後も、自分が死刑になるとは思っていなかったようだ。罪の意識がまるでなかった」(『あの死刑囚の最後の瞬間』)という。
死刑判決が確定した後も、教誨師に対して「先生、私は女だから死刑執行はないんです。これまで女で死刑になった者はいないでしょう? 私は10年たったら仮釈放になります。だから、いまの生活は上々です」(『教誨師』)と語った。日本閣の再建だけでなく、将来、小笠原で高齢者施設を経営する夢も語ったという。
『あの死刑囚の最後の瞬間』は彼女の思考を「『私は自分がこう思ったら、ほかのことは頭に入りません。いったんやろうと思ったら、どんなことでもやりとげる』という、自らの目的を達成するためには邪魔なものは殺してしまう手段を平気で講じる。そして、少しも悪びれるところがないのだ。『悪いことをしたとは思っているけれど、泣いたって仕方がないし、出る涙もない』。慙愧もなく、悔いもない」とまとめ、カウが控訴審段階で東京高裁に提出した上申書の内容を引用している。
「わたしはしょばいがしみ(商売が趣味)で、姉の家ぞくにもおゝ(う)えんしてもらったので、しょばいにもあたり、お金はのこしましたけれど、世の中の事は一こうにむとんじゃく(一向に無頓着)で、さつ人をおかしてさいばんになるとゆう事もしりませんでした」
「金は、はたらけばいくらでもできるのですから、しょばいでもうけるのはさしつかえないのですから、そのしょばいをねっしんにやれば、金にはこまらないものです。自分で人をだますとか、人のだいさん(財産)ねらうとか、そうゆうきもちがないから、人をしんようして口車にのってしまい、しっぱいばかりしてくやしいくやしいで一しょう(一生)をおわった女ですから、少しはよいところを見ていただいて、ごかんべんをお願いいたします」
化粧も、媚や愛嬌たっぷりの笑顔を振りまくこともやめた
同書によれば、カウは「ほかの死刑囚のように、来る日も来る日も“お迎え”におびえてびくびくと暮らすようなことはしなかった」という。
〈「むろん、死刑確定直後はすっかり力を落とし、ふさぎ込んで何日かを過ごした。けれども、極めて短い日数で立ち直ってしまった。しかし、カウの生活態度には大いなる変化が生じた。化粧をやめ、媚や愛嬌たっぷりの笑顔を振りまくことをやめた。意味もなく大口を開けてケラケラ笑いこけることもなくなった。一切の営業用のお愛嬌をやめたのだ。そのために、急に十歳も老け込んだように見えた。担当の女子刑務官は、死刑判決のショックでガックリ老け込んだのだとはじめは思った。しかし、それにしても、ちっともクヨクヨした感じがないのが不思議だった」〉
「もう1日だけ待って……」
そんな彼女に最期の日が来る。1970年6月10日、拘置所長に呼ばれ、あす執行を告げられたカウは「そうですか」と何の感情も交えない声で答えた。その後「もう1日だけ待っていただけませんか」と頼んだが、断られた。これは『あの死刑囚の最後の瞬間』の記述だが、『教誨師』は「事情がすぐにはのみ込めぬ様子で『キョトン』としていた」と書き、「日延べ」の要請は、執行直前に「もう2、3日待ってもらえないもんでしょうか?」と言ったことになっている。
最後に食べたいものを聞かれ、遠慮がちに「それではお寿司を」と言った。その晩、刑務官や教誨師らを交えて最後の「宴」が開かれ、カウは音痴ながら、十年ほど前の流行歌を歌ったという。
執行の日、拘置所長に「言い残すことは?」と問われ、「長い間、お世話になり、ありがとうございました。思い残すことも、言い残すこともありません」と答えた。「立ち合う一同の目には、なんと堂々たる態度であることかと映った」(『ある死刑囚の最後の瞬間』)。
「色と欲に凝り固まった毒婦」との落差はどうだろう。これが本当の姿だったのか。「女だから死刑執行はない」と言った心情を彼女はどう整理したのか。同書は「死を恐れず、死刑について何も語らず、見事に刑死していった」と書いているが、本当にそうだったのか。
同じ日、大貫も処刑された。獄中で浄土真宗に深く帰依し、「大乗 ブディストマガジン」1967年7月号への寄稿で「『苦痛は苦痛ながらに安らかに生きている』が現在の心境です」と吐露。「週刊大衆」1966年7月21日号の短歌欄では自作の一首が佳作に選ばれている。
〈 「寂しさに堪へ(え)て六年この獄を出づ(いず)るすべなし死刑囚吾(わ)れは 大貫光吉」〉
カウの経歴や性癖について書かれたものは多いが、不正確な内容も目立つ。『ある裁判の断層』と「週刊朝日」1971年2月26日号「殺人者 『塩原のお伝』小林カウの悪女一代記」、「週刊新潮」1961年5月15日号などを突き合わせるとこうなる。
貧しい家で育ち、夫婦関係には不満があった
〈1908(明治41)年10月、埼玉県玉井村(現熊谷市)の農業・新井家の8人兄弟の次女として生まれた。家が貧しく、カウはしばしば妹を背負って学校に通った。そのため担任教諭は「操行(平素の行い)」だけ「甲」をつけたが「花や動物を愛さず、人情味なし」と学籍簿に記入した。卒業後、約5年間、家の手伝いをしたが、農業が好きではなく、何よりおしゃれで派手好きだった。その後、東京に出て会社重役の家で住み込みの女中をしていたが、22歳のとき、姉の世話で新潟県柏崎出身の小林秀之助(27)と結婚した。〉
〈「夫は背が低く、顔色が青黒くて貧相だったが、実家が財産家だというので結婚した」と周囲に話していた。男女1人ずつ子どもが生まれたが、男児は16歳で病死した。カウは一度も病院に見舞いに行かなかった。「親子の愛情は薄かったようです」と取調官に話したという。夫婦仲は円満ではなく、特に秀之助の体質が虚弱なことから夫婦関係に不満を感じていた。「夫には『おまえは不感症だ』などと口癖のように言われていた」(公判での供述)。そんな時、18歳年下の中村と知り合った〉
小林カウが毒婦であり、悪女であることは間違いないだろう。ただ、彼女の人生を振り返ってみて言えるのは、男におもねらず、媚びたところがないことだ。そこがほかの「悪女」とは違っている。
一審初公判直前の1961年4月14日付毎日は「平然と“黒い手” 小林カウ」が見出しのまとめ記事を載せた。その識者談話の中で劇作家の田中澄江は「物欲も性欲も普通人以上に強く、理性で判断することができない」「非常なエゴイスト——。だから、殺人という恐ろしい罪を犯してもシャーシャーとしている。欲望だけで生きる女性がいたこと。私はそこに戦争の原型をみるような気がする」と評した。「婦人公論」1963年1月20日臨時増刊で作家、平林たい子は「闇市の小商人などによくいた女のタイプ」と分析し、問題は「彼女がどの男も愛していないことである」と指摘した。
吉永小百合は「私の中にも魔性のような部分がある」
一方でカウの死刑執行から14年後には、事件をモデルにした東映映画『天国の駅』(1984年、出目昌伸監督)が公開された。吉永小百合が「初の汚れ役」としてカウ役を演じたことが話題になり、インタビューで彼女は「私の中にも、そうした魔性のような部分があるので、それを大きく膨らませて演じたいと思います」と語った(「週刊宝石」1984年2月17日号)。
カウは「時代の旗手だった」
下野新聞とちぎ20世紀取材班編『とちぎ20世紀 上巻』(2000年)は「戦後の混乱から復興への道に入った日本人の多くは、『生きるため』から『より幸せに、より豊かに』を望み始めた」とし、映画の脚本を書いた早坂暁の言葉をこう伝えている。
〈「カウが求めていたものが愛だとすれば、それは元巡査(=中村)だった。その出会いをきっかけに、彼女は自分の『欲望』に忠実になった。極端な言い方をすれば、カウは『時代の旗手だった』」〉
カウは中村について「一目見た時から好きだった」と語り、公判ではこうも述べたという。
「生涯でただ一人愛した人でした」
愛を求めた女、誰も愛さなかった女。はたしてどちらが彼女の本当の姿だったのか。死刑執行の時、カウは選んでおいた晴着を身に着け、薄化粧をしていたという。
【参考文献】
▽『栃木県警察史 下巻』(1979年)
▽栃木新聞社編集局編『栃木年鑑 昭和37年版』(栃木新聞社、1962年)
▽大貫大八『ある裁判の断層』(落合書店、1967年)
▽吉田和正『誘う女 ドキュメント日本閣殺人事件』(三一書房、1994年)
▽大塚公子『あの死刑囚の最後の瞬間』(ライブ出版、1992年)
▽堀川惠子『教誨師』(講談社、2014年)
▽下野新聞とちぎ20世紀取材班編『とちぎ20世紀 上巻』(下野新聞社、2000年)
(小池 新)
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