「誰かにガッツポーズを見せたんです」…90歳で亡くなった“過激な仕掛人”新間寿さん、通夜で妻と娘が明かした「最後の日」
2025年4月30日(水)6時2分 スポーツ報知
新間寿さんの祭壇
今月21日に肺炎のため90歳で亡くなった“過激な仕掛人”とうたわれ、アントニオ猪木さんと共に昭和の新日本プロレスで黄金時代を築いた元新日本プロレス専務の新間寿さんの通夜が29日、新宿区の感通寺でしめやかに営まれた。
通夜には、初代タイガーマスクの佐山サトル、藤波辰爾、前田日明、新日本プロレスの菅林直樹会長、永田裕志らプロレス関係者、国民民主党の榛葉賀津也幹事長、自民党の和田政宗参院議員ら380名が参列した。
祭壇には笑顔の遺影が飾られた新間さんは、新日本プロレスのロゴマークが入った愛用したジャケットに佐山からプレゼントされた青のネクタイを着用しひつぎに収められた。戒名は「金剛院信定日壽居士位」。通夜を前に妻の陽子さん(84)と長女の野尻千種さん(50)が取材に応じ、別れの時を明かした。
新間さんは、3月25日に新型コロナ感染が判明し都内の病院に入院した。コロナは回復したが肺炎を発症し4月18日に退院したが21日午後6時47分に都内の自宅で息を引き取った。
千種さんが亡くなった21日を明かした。
「朝の2時から起き出して、いろんなすごい古い話を5時ぐらいまでして、その時間に起きて話をすることはなかったので“今日は危ないかな”と思っていたんですけど、それから6時ぐらいからお昼過ぎぐらいまで寝て、起きてアイス食べたりしていたから、大丈夫だと思っていたんですけど、夕方6時ぐらいに飲み物飲んだら“おなかが痛い”って言い出して、その30分ぐらいしたらすっごい腹痛が来て、母に手を取って“さすってくれ”って言って、ずっとさすって…。“痛い…痛い…痛い”って。その波が2回来た時に目を開いて閉じなくなったから“お父さん、目を閉じないと乾いちゃうよ”と声をかけたら目を閉じたんです、ゆっくり」
ベッドには、陽子さん、長男の寿恒さん、千種さん、そして7人の孫が見守っていた。容体の急変に医師がかけつけた。
「みんな孫も“じいじ”“お父さん”ってみんなで声をかけて…みんなで声をかけながら最後、ゆっくり脈が止まるまで見送りました」
新間さんは愛する家族に見守られながら90年の人生に幕を閉じた。千種さんは、午前2時から話した内容を「私と父の共通の古い知り合いに“会いたいなぁ”とか…あと佐山さん。“佐山ちゃんに会いたいなぁ”…あとパラオにもう一回行きたいなぁとか。そう言ってる時に斜め上を見て、こうやったんです」と新間さんは、両手を挙げてガッツポーズをしたという。
「誰がいた?って言ったんですけど、私にはわかんなくて。誰かにガッツポーズを見せたんです…あれが何だったのかなぁと思って。とにかくパラオの話しはしていました」
1962年4月14日に結婚した妻の陽子さんは、夫を「とにかく仕事一筋」と表し「優しかったです。ケンカするとかまったくなかったです。怒られるとか…その分、家のことよりプロレスのことに気が向いていたんだと思う」と振り返った。プロレスに情熱を傾けた源を「人の喜ぶを見て自分が喜ぶ…それは年中言ってました。みんなが喜んでくれることを自分が嬉しいんだ。プロレスの会場行くとみんな喜んでくれてるから嬉しいんだっていっつも言ってました」と明かした。
猪木さんについては新間さんは「アントニオ猪木は好きです。猪木寛至はあまり好きじゃない」と打ち明けていたという。その上で「もう少し思いやりがあれば良かったと思う、あの方。ちょっと人に対する思いやりはあまりなかったですね」と陽子さんは明かした。
千種さんは「お父さんは私の願いをすべてかなえてくれるお父さんでした」と声を詰まらせながら感謝をささげ「外では厳しかったですけど家の中では私には本当に優しくしてくれました」と思いをはせた。
新間さんは、毎日のように陽子さんに「好きだ」と伝えていたという。陽子さんは「とにかく本が好きでした。どこへ行くにも本を読んでいました」と回想し、ひつぎには愛読書だった「三国志」などを収めたという。
告別式は、30日午前10時から感通寺で営まれる。藤波と佐山が弔辞をささげる。