『べらぼう』で片岡愛之助演じる鱗形屋孫兵衛。「吉原細見」独占版元だったはずが<重板事件>で追い込まれると蔦重が瞬く間に…
2025年1月28日(火)6時30分 婦人公論.jp
(写真提供:Photo AC)
現在放送中のNHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』。横浜流星さん演じる主人公は、版元として喜多川歌麿や東洲斎写楽らの才能を見出した“蔦重”こと蔦屋重三郎です。重三郎は、どのようにして江戸のメディア王まで上り詰めたのでしょうか?そこで今回は、書籍『新版 蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』をもとに、日本美術史と出版文化の研究者で元東京都美術館学芸員の松木寛さんに解説をしていただきました。
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版元となる
鈴木俊幸氏の「蔦屋重三郎出板書目年表稿」は、蔦屋重三郎が出版した版本類を調べあげた労作である。以後この資料によって重三郎の版元業の展開を見ていくことにする。
鱗形屋の系列に入った重三郎は、安永2年(1773)に吉原細見『這嬋観玉盤(このふみづき)』(勝川春章画)を、次いで同3年の正月に『細見嗚呼(ああ)御江戸』(平賀源内序)を売り出す。
そして、7月には版元として初めての出版物、遊女評判記『一目(ひとめ)千本』(紅塵陌人<こうじんはくじん>序、北尾重政口絵)を刊行する。
これは浮世絵界の権威者である北尾重政の起用など、その背後に鱗形屋のバックアップがあったと考えてよいだろう。
わずか数年で版元になれた理由
安永4年7月、重三郎はそれまでの吉原細見の小売取次者の地位から、突如出版者に転じて、最初の吉原細見『籬(まがき)の花』を出版する。
重三郎が小売商からわずか数年で、このような細見版元になれたのには、実は訳があった。
吉原細見出版の独占版元・鱗形屋孫兵衛が、この年5月手代が引き起こした重板事件に巻き込まれ、訴訟を受ける羽目となったのである。
そのためであろう、鱗形屋は秋に出版すべき吉原細見が刊行できない状態に追い込まれた。
蔦屋の細見
ところがそこは「生き馬の目を抜く」と評された江戸のことだけあって、機を見るに敏な蔦屋重三郎、小泉忠五郎らは、鱗形屋に替わって早速彼らの手で吉原細見を出版してしまう。
この時の蔦屋の細見は、従来の小型本(15.7×11.0センチ)を中型本(19.0×13.0センチ)に変えるなど、いくつかの新しい形式を採用しているという。細見版元としてのスタートをきった重三郎の、新鮮な意欲の表われであろうか。
(写真提供:Photo AC)
こうして翌安永5年春からは、吉原細見は蔦屋版と鱗形屋版の2種類が出版されることになった。二者併立の状態は安永末まで続いていくが、新形式を採用したのが好評だったのか、また鱗形屋の衰運が作用したのか、蔦屋版は鱗形屋版を圧倒し、やがて天明3年(1783)吉原細見の出版権は蔦屋重三郎の完全な独占となる。
重三郎は自己の吉原育ちという出自を生かして、まず特殊な地域に根ざしたタウン情報誌「吉原細見」に着眼点を置き、その出版権を得ることによって、彼の版元としての足元づくりを始めていったのである。
武士の名鑑を掌握した書物問屋
この重三郎の商法と比較対照されるのが書物問屋須原屋茂兵衛である。彼は丸の内地域に多く集中する大名、旗本を対象に、当時の武士の名鑑である「武鑑」出版を一手に掌握していた。
武鑑は吉原細見とともに、決して爆発的な売れゆきのでる書物ではないが、それでも毎年一定の需要の確保が約束される安定した商品である。
彼らはお互いこの確実な商品の出版を営業の基盤に据えながら、順次経営規模を拡大させ、やがて江戸を代表する地本問屋・書物問屋に発展していくのである。
※本稿は、『新版 蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』(講談社)の一部を再編集したものです。
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