【阪神】歴代3位・通算320勝の「精密機械」小山正明さんが死去 天覧試合でONに初のアベック被弾

2025年4月25日(金)5時0分 スポーツ報知

小山正明氏

 阪神は24日、NPB歴代3位の通算320勝を挙げた小山正明さんが18日午前11時20分に、心不全のため死去したと発表した。90歳だった。葬儀は家族葬で執り行われた。テスト生として入団しながら「精密機械」と呼ばれたコントロールを武器に沢村賞、最多勝などを獲得。東京(現ロッテ)、大洋(現DeNA)でもプレーした。

 戦後のプロ野球史に名を残した大投手が旅立った。小山さんは今春に入っても取材依頼を快諾するなど、元気だったが、心不全で帰らぬ人となった。1953年に高砂高から打撃投手兼任のテスト生として、阪神入団。藤村富美男らベテランの打撃投手を務める傍ら「針の穴も通すコントール」、「投げる精密機械」と呼ばれた投球スタイルを築いた。

 入団1年目から5勝を挙げると、翌54年に11勝をマーク。58年からは3年連続20勝をマークした。59年には天覧試合の先発マウンドにも立ち、7回途中4失点。ONに初のアベックアーチを浴びる屈辱も今となっては勲章と言える。62年にセ・リーグ記録の5試合連続完封を含む13完封や47イニング連続無失点などの快挙を成し遂げ、村山実との2枚看板で阪神の2リーグ分立後初優勝に貢献し、沢村賞にも輝いた。

 「野球は初回の先頭に全神経を集中しなければならない」が持論だったが、65年7月15日の阪急戦であと1死からノーヒットノーランを逃すと「一番大切なのは9回2死からの打者をどう抑えるか」とも言った。

 63年オフには大毎の不動の4番を担った山内一弘と後世に語り継がれる「世紀のトレード」が成立。「俺はプロだ。どこへ行っても投げる。そして見合った給料をもらう」と言い放った。東京移籍1年目から魔球「パームボール」を武器に30勝を積み上げ、最多勝を獲得。1970年はロッテの10年ぶりのリーグ優勝に導く原動力に。73年に大洋を最後に現役を引退した。

 通算856試合に登板し、320勝(232敗)は金田、米田に続く歴代3位。プロ野球史上唯一の両リーグ100勝以上も記録した。同防御率2・45、4899回、3159奪三振の圧倒的な成績で最多奪三振、最高勝率などのタイトルも手にした。

 引退後はコーチとして阪神、ダイエーを始め、西武では90年から2年連続のリーグ優勝、日本一に尽力。01年に義父・宮武三郎さん(故人、元阪急=65年に特別表彰)との父子2代となる殿堂入りを果たした。ユニホームを脱いでからも、評論活動を精力的に続け、藤浪ら次代を担う後輩たちに熱いまなざしを注いでいた。

 ◆小山 正明(こやま・まさあき)1934年7月28日、兵庫・明石市生まれ。兵庫・高砂高から53年に阪神入団。本格派で抜群の制球力を武器に歴代3位となる通算320勝を記録。62年には27勝で阪神の2リーグ分立後初優勝に貢献して沢村賞。64年に東京に移籍し30勝で最多勝。73年に大洋を最後に引退した。阪神、西武、ダイエーなどでコーチを歴任。01年に野球殿堂入り。右投右打。

スポーツ報知

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