『マツダ・ファミリア』起死回生を狙うも不発に終わったマツダの直4搭載マシン【忘れがたき銘車たち】

2022年10月20日(木)9時46分 AUTOSPORT web

 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、全日本ツーリングカー選手権(JTCC)を戦った『マツダ・ファミリア』です。


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 “シャコタン”セダンが接触アリのバトルを繰り広げていた全日本ツーリングカー選手権、通称JTCC。グループAに変わるカテゴリーとして生まれた、このJTCCは2.0リッターNAエンジン搭載4ドアセダンによるレースで、そのマシンのスタイルなどから、今でも根強いファンがいる。


 JTCCの初年度である1994年にはニッサン、トヨタ、ホンダ、マツダという日本の自動車メーカーが足並みを揃えて参戦していた。なかでもマツダはベース車両に当時のマツダのラインアップで最もスポーティなイメージが強く、V6エンジンを搭載していた4ドアクーペボディの『マツダ・ランティス』をチョイスして、JTCCへと挑んだ。


 しかし、マツダ自体が久しく量産車ベースのレーシングカーを製作していなかったことでのノウハウ不足もあって、成績は低迷。ランティスの売りだったV6エンジンもレーシングカー用としては重く、出力を出せなかったことから、次なるマシンの投入が望まれていた。


 そんななか、白羽の矢が立ったのが『マツダ・ファミリア』であった。ベースとなったのは、1994年に市販車が登場した8代目のBH型ファミリア。軽量コンパクトな4気筒モデルで、ホイールベースとトレッドの比率がニッサン・プリメーラに似ていたことなどから、マツダの新しいJTCC車両として選出された。


 JTCC用のファミリアは1994年より継続参戦するランティスとは別にマツダスピードが新たに車両を製作した。心臓部にはBP20-TRというエンジンを搭載。このBP20-TRは、1.8リッターのBP-ZE型をベースに2.0リッターへと排気量アップしたもので、当時はF4にも用いられていたエンジンだった。


 レーシングカーに仕立てられたファミリアはその後、1994年7月にスポーツランドSUGOでシェイクダウンを完了。同年8月にTIサーキット英田(現・岡山国際サーキット)で行われた第11戦、12戦でデビューを果たす。


 しかし、シェイクダウン時にはドライバーのアンドリュー・ギルバート-スコットも好感触を得ていたが、デビュー戦からずっと結果を残すことができずにいた。


 さらにこの時期、バブル経済の崩壊で予算の削減が余儀なくされた影響もあり、徐々にレース活動を行うこと自体が困難な状況になってしまっていた。そして結局、マツダは1996年いっぱいでJTCCから撤退することを決定した。


 ランティス、そしてファミリアと投入するも参戦した3年間で勝利はおろか、表彰台もゼロ。そしてマツダは、再び全日本級のハコレースから退くことになるのだった。

アンドリュー・ギルバート-スコットがステアリングを握り、1995年の全日本ツーリングカー選手権第11戦、12戦TIサーキット英田でデビューを果たしたマツダスピード・ファミリア。
1996年の全日本ツーリングカー選手権第1戦、2戦富士スピードウェイでフランク・フレオンがドライブしたマツダスピード・ファミリア。

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