「九龍城砦」とアヘン戦争、九龍砲台の活躍も及ばず敗戦…イギリスの香港占拠により城塞が完成した経緯
(みかめゆきよみ:ライター・漫画家)
国を揺るがすアヘン
九龍城砦の歴史を語る上で切っても切れないのがアヘンだ。近代の九龍城砦の闇の印象——混沌、魔窟、無法地帯などのイメージはアヘンなどの薬物の影響によるところが大きいだろう。実際にアヘン窟として恐れられていたのは1950年代から60年代で、九龍城砦の最後の姿に変わる以前のことだから、その印象が根強く残り続けたということだ。
アヘンという存在は九龍城砦のみならず、清国を揺るがすものであった。いわゆる「アヘン戦争」が勃発し、清国は欧州列強による植民地政策に巻き込まれた。この流れに九龍砲台も否応なしに飲み込まれていった。歴史の教科書で一度は目にするアヘン戦争、そこに至る経緯を見ていこう。
16世紀、西洋諸国はまさに大航海時代の真っ只中。当時勢いのあったポルトガルは東洋との交流を進め、香港の南西に位置するマカオに居留地を設けた。17世紀になるとイギリスも積極的に東洋に進出し、マカオにイギリス東インド会社を上陸させた。1771年にはマカオの北に位置する広州において開業することも許された。
この頃の清の貿易制度は清政府が許可を出し、許可証が発行された清の商人を通して行われた(公行)。制限のある貿易に当然ながらイギリスは不満を覚え、自由貿易を確立していきたいと考えるようになった。イギリス東インド株式会社が清に売り出したいと思っていたのは植民地インドで生産されるアヘンである。清政府はアヘンの輸入を禁止していたが、取り締まりの目を掻い潜り貿易は拡大する一方だった。清ではアヘンによる健康被害が広がり、また一方でアヘンの代わりに銀が大量に流出し経済が不安定になっていった。
清政府はアヘン厳禁策を取り、林則徐(りんそくじょ)を起用。賄賂にも動じない林則徐の徹底したアヘン取締り政策により、大量のアヘンが没収・処分された。もちろんイギリス側はこれに抗議し、全権商務総監のチャールズ・エリオットが在留英国人らを引き連れて広州からマカオへと退去した。戦争の準備を進めるためである。
アヘン戦争における九龍砲台の活躍
九龍地区は砲台を用いてイギリス軍に徹底抗戦の構えを示した。九龍砲台の守備に当たったのは頼恩爵(らいおんしゃく)という軍人だった。頼恩爵の父、頼英揚(らいえいよう)は1回目に触れた両総督百歳からの覚えめでたく、頼氏一族自体は三代五将の名門として知られている。
1839年、エリオットはマカオにて英国商船艦隊5隻と合流。これらを率いて九龍湾に突如として現れた。清側はイギリス側の奇襲に対し、九龍砲台で応戦した。頼恩爵側からの報告書によると2度ほどの衝突で10時間ほど戦い、死者は2名であったという。一方のイギリス側の報告によればこの戦いによる被害はなく、死者もなかったとされている。どちらの報告が真であるかは定かではないが、イギリス側としては物資調達拠点として九龍を押さえられなかったのは痛手であったのではないかと思う。この戦いがアヘン戦争における清国とイギリスとの初めての衝突であった(九龍海戦)。
九龍海戦の功により、頼恩爵は副将に昇格した。そして頼恩爵の提案を受け林則徐主導のもと、香港地区一帯に砲台が新設され、軍備が進んでいった。頼恩爵の活躍もあり、ここにきて九龍城砦の軍事拠点としての重要性が高まっていった。これまで武官の中でも等級の低い者が管轄するにすぎなかった九龍寨に、副将クラスが駐留するようになったのだ。
敗戦…香港島、イギリスの管轄へ
徹底した守備によりイギリスの侵攻を抑えることに成功した九龍一帯。しかしアヘン戦争全体として見ると、清国はイギリスの火力に押され大敗を喫した。1841年、イギリス海軍は香港島の北岸に上陸し、英国旗を立てた。1842年8月には南京条約が成立し、アヘン戦争が終結。翌1843年6月に香港島が直轄直営地としてイギリス帝国に編入された。以降、香港は第二次世界大戦中の3年8カ月の日本帝国軍占領期間をのぞき、1997年の返還までイギリスの植民地となったのである。だがこの時にイギリスに編入されたのは香港島だけであり、九龍地区は依然として清国のものであった。
香港総督への対応は両総督の耆英(きえい)が当たることとなった。耆英は新たに九龍巡検を設け、九龍寨に常駐させた。九龍寨は武官の副将と文官の九龍巡検が駐留する特別な寨の様相を呈していった。九龍巡検は植民地政府とともにいくつもの海賊事案を共同で解決していったが、これは九龍寨に外交処理の権限もあるということでもあり、ますます重要性が深まっていった。そのうちに城壁を築いて城砦として機能させる必要性が生まれていったのである。
九龍城砦完成
アヘン戦争によりイギリスが香港島を占拠したことから、その対岸に位置する九龍寨の軍事的な重要性が否応なく増すこととなった。城壁を造り、ふさわしい執務室を設けることが急務である。頼恩爵はマカオ付近にあった前山寨城を参考に、九龍寨城を設計していった。前山寨城はマカオにやってくるポルトガル人の監視を目的として築かれた役所であったため、先行事例として最適だった。
建築に際しての費用は寄付金によってまかなわれた。清の時代、各地方の城壁建築は寄付によって行われるのが常であり、頼恩爵ら位の高い役人たちが多くの寄付をした。こうして1847年5月、「九龍城砦」が完成した。完成した九龍城砦は堅牢な城壁のほか、役所も建設され、兵舎や「龍津義学」という学校も建設された。
この「龍津義学」は九龍城砦の中央に位置し、東隣には九龍巡検司が置かれる。近世の九龍城砦においては「龍津義学」の位置に「義学大楼」という名の学校が、九龍巡検司の位置に老人中心(老人ホーム)や青年中心(青年センター)、幼稚園があった。城砦化の名残が近世まで残されていたわけだ。九龍城の防衛範囲は現在の新界や離島を含む広範囲におよび、200村余りを管轄した。
8日間の陥落
防衛拠点としての機能を備えた九龍城砦であったが、完成してから間もない1854年にわずか8日間だけ陥落したことがある。九龍城砦を襲ったのは羅亜添(ローアーティム)という客家人(※1)であった。羅亜添は反清政府を掲げる香港三合会の首領であった。太平天国の乱(※2)に呼応した広東省の三合会が各地で勝利を収めているのを機に、各地の反乱に駆り出され防備が手薄になった九龍城砦へと攻め入ったのである。清軍は香港の外国人傭兵の力を借りて8日後に城砦を取り戻したという。当時の清がアヘン戦争でいかに疲弊していたのかがわかるエピソードと言えるだろう。
※1 客家(ハッカ)人…広東省、福建省、江西省、台湾などに住む漢民族の一種。客家は「よそ者」の意味が含まれる言葉で、独自の言語と文化を持つ。
※2 宗教家の洪秀全(こうしゅうぜん)が起こした反乱。1850年、洪秀全が興したキリスト教を基にする「拝上帝会」が広西省で蜂起し、翌年には1月に「太平天国」の国号で独立国家を樹立した。太平天国の国号は1864年まで続いた。
第二次アヘン戦争勃発、九龍半島割譲
香港は太平天国の乱から逃れた人々が流入してきてにわかに活気づき、人口が4万人から8万5千人にまで増加した。それほどまでに清国内は荒れていたのだ。清は太平天国の乱だけでなく、イギリスともたびたびの小競り合いを起こしていた。
1856年、清とイギリスは再び武力衝突を起こす。第二次アヘン戦争、またはアロー戦争と呼ばれる戦争である。ことの起こりはアロー号という名の船であった。イギリスの全権代表で貿易監督官のボウリング香港総督は、香港の清国人達が所持する船をイギリス船として登録することを許可していた。しかし広州の役人がイギリス船として登録されたアロー号に乗り込み、乗組員十数人を海賊行為と密貿易の嫌疑で逮捕してしまった。広州領事ハリー・パークスはアロー号への不法な取締りと、この時にイギリス国旗が引き裂かれたことを非難した。
実はこの時すでにアロー号の登録は期限が切れていたが、パークスは構わず難癖をつけた。そして中国当局に乗組員の釈放と謝罪を要求した。清側は釈放に応じたものの、当時イギリス国旗は掲揚されていなかったとし、イギリス国旗への侮辱に対する謝罪は拒否した。これを受けボウリングは広州攻撃の準備を進めた。このいざこざを口実に再び戦争を起こし、南京条約をイギリスに有利な条件に修正しようというのである。
この戦いで清は苦戦を強いられ、戦いの最中に天津条約が結ばれた。これは清側が不利な不平等条約で、北京に外交官を常駐させる、多額の賠償金を支払うなどの条件のみならず、自由貿易を認めさせるものであった。そしてアヘンの輸入に関税を賦課することが定められ、いよいよアヘン貿易が公認化されてしまった。
続く戦いにおいて北京を占領された清は、1860年に北京条約を締結するに至った。これにより九龍半島の界限街以南と香港島の西に位置するストーンカッター島がイギリスに割譲されてしまった。イギリスはいよいよ香港全域の占拠に王手をかけたのである。
参考文献
九龍城寨の歴史 魯金著 倉田明子訳 みすず書房
香港の歴史 ジョン・M・キャロル著 倉田明子、倉田徹訳 明石書店
最期の九龍城砦 中村晋太郎 新風舎
大図解九龍城 九龍城探検隊 岩波書店
日本占領下の香港 関 礼雄著 林 道生訳 御茶の水書房
香港追憶 長野重一 蒼穹舎
筆者:みかめ ゆきよみ