中岡慎太郎・木戸孝允ラインによる薩長融和路線とは?中岡・楫取との両ライン結合による薩長融和の促進
2024年7月10日(水)6時0分 JBpress
(町田 明広:歴史学者)
中岡・木戸ラインによる薩長融和路線
前回、中岡慎太郎・楫取素彦による中岡・楫取ラインによる薩長融和の推進過程を詳述した。その一方で、この中岡・楫取ラインとは別に、中岡・木戸孝允による中岡・木戸ラインが並行して存在した。慶応元年(1865)4月27日、中岡は中央政局の探索のため、大宰府を出発し、29日には下関に立寄り、大村益次郎・伊藤博文に面会、翌日には26日に帰藩したばかりの木戸と面会を果たした。
木戸は、薩摩藩が藩論を一変したとの風説を聞き及んでいたものの、とても信じられない強い不信感を抱いたまま、中岡と期せずして面会した。木戸は、五卿(三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌)の近況を尋ねるとともに、薩摩藩の変化に対する風説の実否も確認した。
中岡はそれに対し、薩摩藩はこれまでとは相違し、朝廷のため尽力していると回答した。よって、木戸は三条に対して薩摩藩の動向を問うために密書を認め、土佐藩浪人で遊撃隊軍艦の後藤新蔵に大宰府まで持参させた。
その中で、木戸は薩摩藩がこれまでと違って、偽り欺くことをせずに、誠意を以て朝廷のために尽力するのであれば、我が国にとって大幸であることは言うまでもない。しかし、いまだにその実効が現れておらず、孝明天皇が薩摩藩の動向をどう捉えているのかと訝しんでいると伝える。
そして、藩主毛利敬親・広封父子は五卿と今後も行動を共にする決意をしており、そこで気になる薩摩藩の動静について、三条に見解を密に伺うことにしたと真意を開陳したのだ。この展開こそ、中岡による大きな成果と言えよう。
木戸の薩長融和に向けた目論み
木戸孝允は続けて、薩長間の離反も薩摩藩と会津藩が共謀した八月十八日政変以来であるとしながらも、薩摩藩も真に朝廷のために尽力するのであれば、将軍家茂の上洛に合わせて、薩摩藩が朝廷権威の回復のために尽力すべきである。そして、それも我が国のために、祈念していると主張する。
また、孝明天皇も薩摩藩の深意を見極めて信頼されるのであれば、藩主父子も日本のために薩摩藩への私怨を捨てて、朝廷のために尽力する旨を伝えた。最後に、薩摩藩とは志が同じであっても、この間の事情もあるので、薩摩藩の方針が本当に変わったのか否かを藩主父子始め国中が気にかけており、その動向を問うべく密書を認めたと結んでいる。
木戸の意見書で重要なのは、慶応元年5月段階で、薩摩藩への敵愾心は到底払拭できないとしながらも、その動向次第では私怨を捨てて、協働して幕府にあたる用意があることを示唆していることである。楫取同様、岩国領・吉川経幹以外の宗藩要路の薩長融和に向けた意向をここでも確認でき、しかも実力者である木戸の意見であることを重視したい。
これに対し、三条実美は薩摩藩の情勢に変化が見られると断言し、長州藩も過去の経緯にとらわれず、薩長の融和を図ることを強く求めた。また、使者となった後藤も同様な内容を主張したことも相まって、木戸を始め薩摩藩の変化に安堵する者が多数いた。
しかし、一方では、相変わらず薩摩藩への不信感を露わにする者も少なくなかった。木戸は薩長融和に傾斜していたものの、藩内の反対勢力をどのように説得するのか、大きな課題を突き付けられたのだ。
なお、木戸にここまでの薩摩藩への歩み寄りをもたらした、中岡の尽力も軽視できない。その説得に応じて、木戸は薩長融和に踏み出したのであり、長州藩としての第一歩は間違いなく中岡の功績であった。
両ラインの結合による薩長融和の促進
中岡・楫取ラインと中岡・木戸ラインの2つの方向性は、当初違ったものとして存在した。楫取は5月7日に太宰府行きを命じられていたが、実際の出発は14日であった。この間、前回詳しく述べた意見書を基に、藩政府では議論があったと考えられるが、木戸の来関の情報は遅くとも5月4日には藩政府に達していた。木戸の山口への到着を待って、方針を決定することにしたと考えるのが妥当であろう。
そして、木戸が13日に山口に現れ、そこで2つのラインが結合し、薩長融和に向けて舵を切ることが藩レベルで確認された。よって、楫取は翌14日に大宰府に向けて出発することが叶った。これ以降も木戸と楫取は密に連携し、薩長融和の実現に向けて尽力することになる。
なお、楫取の長崎行きは、その地での坂本龍馬との邂逅に直結した。そもそも、元治元年(1864)2月29日に勝海舟は長崎で楫取の訪問を受けている。楫取は長州藩の窮地を勝に救って欲しいと懇願し、勝もそれに応え、同藩の情勢を在京の幕閣に知らせ、「寛典処分」(寛大なる処置)を申し立てている。
実は、龍馬も勝と行動をともにしており、楫取の知遇を得ていたのだ。この時は、この出会いが薩長融和への布石になるとは、当人同士も思いも寄らぬことであった。しかし、両者のこの再会は、俄然、薩長融和が現実味を帯びることになったことも忘れてはならない。
次回は、薩長融和の推進の初期段階で起こった西郷隆盛の下関への訪問問題について、その実相を明らかにしてみたい。
筆者:町田 明広